鍵のかかった部屋

『鍵のかかった部屋』ポール・オースター 柴田元幸=訳

自分とそっくりの姿をした分身ドッペルゲンガー。第2の自我・生き霊の類いであり、死や災難の前兆とされるそれは、本人に関係のある場所に出現し、忽然と消える。そして、なぜかドアの開け閉めが出来るという。

7年前の11月、主人公の〈僕〉は、ソフィー・ファンショーと名乗る女性からの1通の手紙で、幼馴染のファンショーが身重の妻を残し、半年前に失踪していた事を知った。手を尽くして探したが行方は知れず、おそらく死んでいるであろうことも。ファンショーは失踪前に妻ソフィーとある約束をしていた。それは彼にもしものことがあったら、書きためた原稿の出版の是非を全て、文筆業の〈僕〉に任せるというのものだった。

小説家になる夢を諦めた〈僕〉は新進気鋭の批評家となった今も辛い思いを抱えていた。ファンショーが繰り返し妻に語った 〈あの男こそ俺の世界一の友人だ、俺のたった一人の本当の友だちだ〉〈あいつはきっとそのうち何かすごいことをやるにちがいない〉という言葉に、そんな〈僕〉は希望の可能性を見た。

しかし、大きなスーツケース一個分のファンショーの原稿を前に〈僕〉は思う。原稿が没なら〈自分の両手でファンショーを締め殺すのと同じだった〉、そうでなくても〈彼に代わって語り続けることになるのだ〉。

ファンショーの著作、小説、戯曲、詩作は、次々と出版されることになる。最初の長編小説『どこでもない国』をはじめ、今や多くの人に読まれ論じられている。いつしか〈僕〉とソフィーは恋仲となり、子供と3人で暮らし始める。ファンショーの原稿料で充分な暮らしができる。子供も〈僕〉に懐いている。まるでファンショーの抜けた穴に〈僕〉がぴたりと嵌まるような幸福な毎日。

言葉を一つひとつ書き留めて行くのが小説であるのに対して、語られる物語は、いつもあらぬ方へと転がって行くものだ。

ある噂が広がる。ファンショーは実在しない、書いているのは〈僕〉だと。〈僕〉に届いた消えたファンショーからの手紙。〈僕を探さないでくれ〉〈君が僕を見つけ出したら、僕は君を殺すだろう〉。ファンショーの自伝を〈書く〉という名目の下に彼の足跡を追う〈僕〉はいつしか語られる〈物語〉の濁流に飲み込まれて行く。

幼い頃から優秀で容姿も優れていたファンショー。それに憧れを持つ隣家に住む〈僕〉。二人はいつでも一緒に遊んでいた。その姿は遠くから見るととても良く似ていたという。ただ1つ、ファンショーが段ボールに入った時だけは邪魔してはいけなかった。どこか遠くに行っているのだ。父親が死んだ日もファンショーは墓穴に横たわり、どこかへ行っていた。〈ファンショーは一人でその部屋の中にいて、神秘的な孤独に耐えている〉〈今や僕は理解した。この部屋が僕の頭蓋骨の内側にあるのだということを〉。

失踪してから死亡が認められるまでは7年かかる。この小説は失踪から6年のところで幕を閉じる。ファンショーと〈僕〉の、小説と物語の、どちらかがどちらかのドッペルゲンガーが立ち現れて『鍵のかかった部屋』を開けるのには、あと1年の猶予が残されている。

(書評誌)

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