見出し画像

徹底して磨き上げてほしいところ……

MさんとRさんが一生懸命漕いでボートに乗っていますよ。後ろからバタンとぶつかるボートがあるんです。で、二人して、「おころうかな、いかろうかな」と、後ろを振り向いたところ、誰も乗っていない空(から)の、誰も乗っていない無人のボートがぶつかってきているんですよ。

誰も乗っていないがゆえに、言いようがない二人。
皆さんだったら、誰も乗っていないボートに向かって、怒りの声、あるいは非難はできないと思うんです。
「このバカのボートは!」って言う人は、一人もいないと思うんですよ。後ろ振り向いて無人のボートが突っ込んできては……。

しかし、そこに誰か一人乗っていたならばカタチは変わる。
皆さんの表現は変わりますよ。

すぐ「この野郎!」

私からすれば、無人でも、乗っていようが、何も変わらないんですよ。
そこまで皆さんは理解してほしいんです。

なぜ人ひとり、あるいは二人でもいい、人が一人乗っていれば変わるんですか?

これが、皆さんの磨き上げるまでの厳しいところですよ。
乗っていようが、乗っていまいが、本来は、何も私には変わりませんよ。
私が「私」と言っているのは「命なる私」ですよ。
空(から)の、何も乗っていないボートも、無限の命が充ち満ちています。ただそこに、ただ一人、命がカタチをとって座っているだけであって、命そのものであることに何も変わらないんです。皆さん変わると思います?
何も変わりませんよ。

まあ、私はそんなことなんて、まだ体験はないですよ。ただ、今、皆さんの前に光話をしているなかに、私の意識に映っている映像ですよ。

満員電車に乗っているとします。
もうSちゃんは席がなくて吊り革につかまって立っています。満員電車で。

電車に乗ったことのない私に、神は見事に映しみせてくれるからね。便利なものですよ、皆さんもこの映像を観てほしいと言いますよ。この意識に映る完璧さを……電車に乗ったこともないのに、もう私は乗っている気分ですよ、この電車に。

Sちゃんが吊り革につかまって満員電車で立っていますよ。
急ブレーキか、あるいは線路の歪みかで、その電車が揺れましたよ。
で、 Sちゃんは足を踏まれました。
Sちゃんは私に怒りを向けていますよ、顔を見て……この顔だから。
もう前はハンサムでとっても優しい顔だったけど、今は皆さんを導くのに厳しい顔になったって言われていますけど、この厳しい顔だったゆえに、もう文句ですよ!

しかし、振り向いて、見てみたならばSちゃんの友だち。
文句言いますか?

顔・カタチが違えば、なぜ文句言うの? 
なぜ文句を言わないの?

そこが皆さんに徹底して磨き上げてほしいところですよ。

ここで学んでいる中国の方々も、沖縄に今、留学で勉強をしている方々は「沖縄の顔」になっていますよ。溶け込みつつありますよ。

本来は中国人、日本人、アメリカ人、ヨーロッパ人、インド人……存在しないんです。
すべては、唯一の愛が衣装をまとってここに化身しているだけなんです。
それをいつも本質は、本質を「愛」と説いてもいいです。

愛は一(いつ)にして多身。

姿・カタチ・形態は異なっていても、表現の方法は異なっていても、生まれ出てきた場所・環境は違っても、皮膚の色が黒かろうが、白かろうが、愛そのものに変わりはないんですよ。

じゃあ、私を生かしている愛、Sちゃんを生かしている愛に、
高い・低い
大きい・小さい
特別・特別じゃない
がありうると思いましょうか。

誰のうちで働いている愛も一つなんですよ。一元なる愛ですよ。

小さなアリを生かしている愛も、大海を泳ぐ大きなクジラを生かしている愛も
何も変わらないんです。

「命」に置き換えて、小さなカタチには小さな命、大きなカタチには大きな命という、その錯覚が皆さんをあらぬ方向に引っ張りこんでいるんですよ。

無限のなかに創造されたものにおいて、カタチ小さかろうが、カタチ大きかろうが、一点一物、すべては“無限の愛“そのもののあらわれなんですよ。

無限の愛…

2022年9月13日光話『無限に愛する』より


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?