建設も破壊も一人から

これからはどう生きればいいのか?

いちばん大切なことは、いつどこに我々がいても、すべてのすべてあってあるものが見ての、生きた聖書であってほしいというのが、私の願いなんです。
子どもたちを教育するにも、大人はネガティブや消極、破壊的な思いや言葉、行為をしていながら、子どもたちに良い子が育ってほしい・・・私ははじめから言いますよ。「無理です!」と。
無理な教育をするなと言いたいんです。

まず大人が、いつ、どこで、見たって、誰と出会っても、

なんてこの者の言葉は、神として美しき愛の言葉なんだろう。慈悲の言葉なんだろう。で、その行為なんだろう・・・

もう本当に今日ここに参加しているひとりひとりが、その境地で生きることができるならば、日本は変わりますよ。世界は変わりますよ。

建設も破壊も一人からなんですよ。

たとえば今の世の中、天変地異・天候異変、事件・事故さまざまなこの社会を、この世界を作り上げたのは、たとえば今の地球人口が40億だとしても、50億人だとしても、50億の人間が一斉にそのような生き方をしたんではないんですよ。
一人から二人、二人から三人と、それが拡がって、今なんです。

それが理解できるなら、誰がどうであっても、その一人が、神として、正しく美しく、思いに、言葉に、行為に顕現して生きてみてください。

中国の方々を見てもそのとおり。
私はそう言葉で「どうせよ」「こうせよ」と注意したことはないんですよ。ただ中国の方々の前で、そのような生き方を見せただけなんです。で、「そういう生き方についていこう」。ただそれだけですよ。それだけでこんなにも美しく中国の方々が育ってくれたんです。

ひとりひとりが これから どうあるべきなのか?

生きた聖書であることですよ。
いつ、どこでも、誰に見られても、この美しさ・・・神の美しさ、神の正しさ、神の実相を顕現することです。

何も特別なことをする必要なんてないです。
世界は変わります。朝も説いたように、ひとりひとりが思い、言葉、行為、徹底してそれを修正することにおいて、改善することにおいて、世は変わる、世界は変わるという表現していますよ。

常に結果は原因の下にあるんです。
じゃあ、何を正せば?
原因を正せば、結果は変わるということなんです。修正できるということなんです。

修行という漢字は修正する行為と書くんですよ
難行・苦行、滝行、断食とは書いていないんです。
思いを、言葉を、行為を修正する・・・そう書いてあるんですよ。

だからひとりひとりが誰彼を変えよう、誰彼をどうしてようではないんです。
己を変えられるのは己しかいないんです。

私が言葉でそう説いて皆さんを変えることができるならば、とうに世界は平和ですよ。
ここで同じことを聞いたって、理解力はみんな違うんですよ。
だから一言を5の理解力、10の理解力、あるいは20の理解力、それぞれに違うがゆえに、私は誰も裁かないんです。
今、5の能力しか顕現できない者に、10も20も30も望めば、望んでいる者が苦しいですよ。

我、何人も裁かずですよ。

だから裁かぬならば、我々は裁き返されることもない。
嫉妬をしなければ、嫉妬をし返されることもない。

すべて自分の思いが、言葉が、行為が、己自身に跳ね返ってきているだけ。
しかし無智、盲目、迷っている者は、
思わしい現象が起これば、良いことは全部私がやった・・・
思わしくない現象が起これば、あなたのせい、誰彼が悪い・・・

(中略)

我、肉体なり。偽我の我を我として、錯覚で生きるかぎり、正く思う、正しい言葉使い、正しい行為、どうもがいてもできるはずがない。何十億の人間から責められたってできるはずがないですよ。偽我で生きているんだから。

我、命なり。真(まこと)の我、神としての我…そうあるならば、これは平和も望めるでしょう。すべての幸せも望めるでしょう。
しかし、偽我で生きている者に望むことができるでしょうか。不可能ですよ。
偽我で生きている者に正しさを望めば皆さんが苦しいんです。裁けば皆さんが苦しいんです。

じゃあ、我々はどうすればいいんだろう?

その者の成長を願うことです。
その者に安らぎを常に願うことです。

これだけで、この何分、何秒で、私が変容させた人間、変性させた者はいっぱいいますよ。この40年間で、何百人という人間、何千人という方々を私は見てきているんですよ。

非難すれば非難するほど、裁けば裁くほど、最悪な波動がここに動くんですよ。で、悪循環ですよ。

これは私は南米でも祈れました。十字架上でもイエス・キリストも全く同じことを言っています。「神よ、どうかこの者たちは、命において一つであることを知らないゆえに、愛として肉に宿った神であることを見失っているがゆえに、全一体であることを理解できぬゆえに、今、間違いをおかそうとしていることを許してほしい」なんですよ。

神よ、どうかこの者たちに光を。心に安らぎを、ですよ。なぜ?

裁いたならば裁いた波動が、非難したならば非難した波動が、その者にぶつかって、必ず己自身に振り返ってくるんですよ。

我、何人も裁かず・・・


2021年10月1日 平和への道・八ヶ岳セミナー②「愛は肉に現れた神」より



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