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すべては自己責任

ある方から言われました。私の説いている厳しさであるなら、もう(本質の世界に到達することは)不可能・・・泣いて、もう諦めたというんです。叫んだといいます。

なぜ、はじめからあるもの、今もあるもの、未来永劫にあるものを引き出すのが、こんなにも難しいことなんだろうか。

もちろん、私も諦めたことは1回ありますよ。もうおそらく約40年前かな。
私はこの肉(体)の目でヒマラヤを見たことはなかったんです。ヒマラヤは悟りの地と言われているのに・・・とは思っていたんです。
で、聖人に瞬間移動でヒマラヤに連れて行かれたとき、ちょうど1メートルぐらいの間隔をおいて、私を迎えてくれた聖人がいたんです。


聖人の方は私に、「こんなにいっぱい連れてきたのか?」と言うんですよ。


私は誰も連れてきた覚えもないし、誰も連れて行ったこともないし。


「私は聖人に導かれて、一人でここに来ました」


と言ったんです。
「その聖人は後ろを振り返ってみろ」と私に言うんです。
振り返ったら、もう真っ黒い帯が・・・

それを「わかるか?」

と言われました。

わからないです。

しかし静かに目を閉じて明想したときに、
今まで幾転生という人生の過程を通して背負ってきた「汚れ」であることを知ったんです。
それが克服されぬかぎり根源の世界(に到達すること)はない。

言葉に出してはいないですよ、思いで、


「この汚れを全部取ってほしい」


と言ったんです。
即、怒られました。


誰がつけた汚れなのか?
自分でつけた汚れは自分で綺麗にせよ。
自分で歪めた道は自分で真っ直ぐにせよ。


そこですべて自己責任であることを教えられました。

そのとき諦めたんです。(ホワイトボードに描いた絵をさしながら)たとえば、ここからここまでの距離が1kmだったとします。こうならば私の汚れは1km。この程度ならば掃除できると思ったでしょうね。
しかし、私の背中にくっ付いてきている汚れは、曲がりくねっていますよ。この曲がりを引き伸ばすと、もうヒマラヤの山に入らないです。


「よし、もう私、今生は諦める」


と思ったんです。言葉には出していないです。すべて意識の伝達ですよ。そのときです。

誰が汚したのか?
あなた自身が汚したものはあなた自身で磨けよ、なんですよ。
あなたが歪めた道ならば、あなた自身で真っ直ぐにせよ、なんですよ。

それで沖縄に帰されているんです。

でまた、私が明想をしているとき、7、8名に聖人が私を取り囲んだときも、
「これから、実相世界において、この地球をどう救っていこうか、どのようにして導いていこうか・・・の会議がある」と言うんですよ。「あなたもその会議に参加するか?」と言われたときに、肉体を持った目的はそのためであることを知っていますから、その約束であると知っていますから、即「参加します」で返事をしています。

その瞬間、7名か8名のその聖人の方々が全部その光を私にぶつけるんです。
この光はもう、無限光ですから、たとえようがないです。あえて言葉にして、たとえるなら、一人の聖人が放つ光は、この世の太陽、何億重ねたって太刀打ちできない。それが7名か8名となってみてください。その光によってもうつぶれますよ。で、その光をぶつけられたときに、この世の最高、世界一の顕微鏡で見てしても捉えきれないほどの、私のうちに潜んでいる一点の汚れの種ですよ。これを私自身が見つけ出しました。

40年、命をかけて磨いて磨いて磨き上げてきたつもり。だから皆さんの前では、何年も何十年もそのように光話してきたんです。
「磨けよ、磨けよ、磨けよ」で、自分自身やってきたんだから。しかしまだこの状態です。
この世の世界一の顕微鏡を持ってしても見えないほどの一点、もうカタチでは見えないですよ。それが私自身の中に潜んでいることを私が感じたときに、7名か8名の聖人は「使えぬ」と言って、すぐ私の部屋から、私が明想しているその場所から去りました。

家族のために、自分ごとで、私は生まれてまだ一度だって悩んだり、苦しんだり、落ち込んだり、まだ体験ない。
ここまで命をかけて、命をかけて磨いて磨いて磨いてきたって、皆さんの前では光話で立っているにもかかわらず、これで「使えぬ」と言って、聖人の方々が去ったときには、私が今生、肉体衣装まとってはじめての落ち込みでした。

しかし、これは何十年の体験からして、1分落ち込めば、1分真っ黒なんですよ。
皆さん、それが理解できないから、自分自身に見えないがゆえに、平気で何ヶ月も何年も落ち込んでいるんです。

本来あなた方は、

我、この世の闇を照らす光なり
我、宇宙を照らす光なり

なんです。

しかし、落ち込んだときにはどういう状態が?
私には観えるんです。感じ取ることができるんです。

真っ黒い中にいます、真っ黒い闇の中に。
智慧が湧くはずがない。力が湧きようがない。
だから皆さんが5分落ち込んでいれば、5分も真っ暗い中にいるんです。
その真っ暗闇なんて、皆さんが想像すらできないです。ただ、私がもう観ているもの、感じているものを絵に描けない、文字にも書き記すことができないゆえに、たとえばこうですよ、とこの程度で書いているけど、あの真っ黒というのは想像もできないです。

1日落ち込んでいるなら1日真っ黒。
じゃあ、そんな真っ暗い中に閉じこもって、どうしてどうして皆さん智慧の湧きようがありましょうか。どうして力が、どうして愛が・・・不可能なんです。だから我々は、もちろんここに到達するまでは、転びもします、つまづきもします、失敗もおかします、で、落ち込みもします。で、転ぶも、づまづきも、落ち込みも、失敗も、皆さんが体験・経験を乗り越えて、成長、輝き、完成のためにある試練ですから、これは私は絶対悪いとは言わないですよ。
しかし、皆さんに、

なぜ切り替えられる自分を確立しないのか?

って言いたいんです。
5分落ち込んでいるならば、5分で切り替えば、すぐ輝きます。
1時間落ち込んでいるならば、それを切り替えれば、また輝きます。
輝けば、それを解決する智慧も力も愛も湧き出てきます。

中略

私も「使えぬ」と聖人の方々が7、8名私の部屋から消えたときは落ち込みました。
しかし切り替えぬかぎりは、一層、真っ暗闇に閉じこもり、智慧も力も愛も湧き出てこないことを知っていたんです。

じゃあ、私がそのときに切り替えた方法は?

私に「使えぬ」と言ってくれた聖人の方々は、はじめから無限光、輝いていたのか?

違うんです。
我々と同じこの肉体衣装をまとい、この現象の世界で、いつも説いているように、結婚も体験し、離婚も体験し、不倫も体験し、あるいは浮気も体験し、落ち込み、失敗、転び、つまづき、すべてのすべてを乗り越えてきて輝いたものですよ。
で、私はどう思ったのか?

その私に光を向けて、「使えぬ」と、私の部屋から去ったこの偉大な方が、たとえばこの世の太陽の光の「百(倍)」の光を放てるならば、私は「万(倍)」の光を放てる私に絶対になってみせると、そう切り替えたんです。
そうしたら、渾々と、智慧、力、愛が湧き出てくるんです。

じゃあ、この一瞬の切り替えには何秒かかったんだろう。

いつも皆さんに説いているように、皆さんが一回目を閉じて開くまでの一回の瞬きと言います。一瞬きにはもう切り替えているんですよ。すぐ光に戻しているんですよ。

じゃあ、私は皆さんよりも特別な人間なのか。
何にも変わらないんです。
何が変わりましょうか。切替の力が変わっただけ。

これから皆さんが本質の世界に絶対に今生に融合というならば、そこが理解できぬかぎり絶対ですよ。不可能ですよ。いついつまでも、もたついて切り替えもできない、真っ暗い闇の中に閉じこもっていて、どうして根源の世界に至れましょうか、です。
転んで、起き上がって、つまづいて、立ち上がって、失敗をおかしたなら、完成に、成功に向けて努力し、落ち込めばすぐ切り替えて・・・これはいちばん大切なところです。

その光話の後に、「その落ち込みの理由はなんだったのか」とよく質問を受けました。

「完璧に磨いて磨いて磨き上げてきた」と言いながら、「落ち込む」という、この一点の種がなかったならば、7、8名の聖人の方に「使えぬ」と言われて、落ち込むはずがないですよ。「落ち込むという種」があったんですよ。で、その光によって炙り出されたんです。その意味がわかります?
その聖人の方々、神は、私が「落ち込む」ということを見抜いていたということです。わずか顕微鏡でも見ることができないその一点の種が、必ずそれが発芽するということを見抜いてのことです。そこまで見抜いていたということです。

今は逆に私にそれができるんです。
だから嫉妬をする人間には、とことん嫉妬をさせ、怒りある人間には、とことん怒りに発芽させて、全部焼き尽くす。しかし、それを私が皆さんから引き取ることではないんです。
皆さん自身でそれを・・・すべては自己責任ですよ。ヒマラヤですでにそう言われているんです。

誰の責任なんだろう?

一点の間違いもなく、一点の狂いもなく、すべて自己責任なんですよ。

これは小さい時から追求はしていたけど、まだその答えは引き出せなかったんです。なぜならば、なぜ喜び、なぜ苦しみ、なぜさまざまな現象があらわれるんだろう?

私がここに“在る”というかぎりは、肉体という衣装をまとって“在る”というかぎりは、さまざまな現象が起こります。

私がここに肉体という衣装をまとって、降りてなかったならば、私に何も起こっていないんです。悩みも、苦しみも、喜びも、悲しみも、何一点も。しかし、肉体衣装をまとったということにおいて、すべてそこにあらわれるんです。

ということはすべて自己責任なんですよ。
誰彼が悪いではないんです。すべてすべて自らの・・・
じゃあ、私は種を蒔かなかったというけれど、
我々は常に、思いは? 言葉は? 行為は?
肉体という衣装をまとったら、すぐそれを持っているんですよ・・・思い、言葉、行為という身口意(しんくうい)というその道具を。

小さい時にずっとずっと追求し考えていたんだけど、まだそこまで答えは引き出せなかったんです。ヒマラヤに連れて行かれて、その体験から小さい時に追求していた答えがここだったんだってことを知ったんです。

肉体という衣装をまとっていながら、無形無双・無色・無臭・無音という本質そのものに我々は到達しうることができるんです。

その時、皆さんは業や罪やカルマが実在しないこと、輪廻転生が実在しないことを、運命という運命が実在しないこと、その時はじめてしっかり自分自身のものとなります。

聖人の方々がはじめからそう(聖人)だったのか。
そうじゃないんですよ。我々と同じような道を歩んできているんです。我々以上に厳しい道を歩んできたんです。

じゃあ、その程度で「私にはできぬ」と泣き言を言えるだろうか。肉体衣装をまとってきたんだから。もうやり抜くしかないんですよ、肉体衣装をまとったかぎり。なぜならば、衣装をまとったかぎり、逃げても逃げられない。隠れても隠れられない。その本質というゴールを目指して、根源というゴールを目指して、もう突き進むしかないんです。


2021年11月17日 琉球ど愛『すべては自己責任』より



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