「王」を演じたいか。「家来」を演じたいか。

決して私は皆さんより一歩でも偉い者でもない。
皆さんより特別な役割を背負っているのでもない。
今生、最高な役割を神から与えられて、今ここにいるのは、皆さんひとりひとりなんです。

ただ私は、自ら今生、追求した道を歩み、永遠の喜び、永遠の至福をつかみ、その道を皆さんに、「あなた方も分離のないすべてを許し、すべてを愛し、いたわり、生きることができるならば、その境地を味わえる」と、ただそれを説くための役割。皆さんが、この現象の世界で、偉いという言葉を使いたいならば、私よりもあなた方が偉いこと。

私は、皆さんの僕(しもべ)にしかすぎないんです。すべての働き手であることにすぎないんです。
ただここまで、常に謙虚で、努力して歩んで来た結果、神の御姿を命として実感し、それを皆さんに説いていくだけにしかすぎないんです。

一人一人が素晴らしい特質を神との約束で背負って出てきた皆さんなんです。

たとえば我々が、この地球という舞台で演ずるために、王を演じたい方、あるいは家来を演じたい方…といえば、誰も王を演じたい、と手を挙げるでしょう。

しかし、すべてが王だけを演じたいというならばストーリーは成り立たない。
映画やテレビのドラマなんて成り立つはずがない。
王を持ち上げているのは誰なのか?
家来なんですよ。

だから私は小さい時から、王よりも常に家来の方々を愛し、優先にすべて尽くしてきたんです。
王を引き立てているのは誰なんだろう?
家来なんですよ。
だから、私ならば王を演じたいのか? 家来を演じたいのか?
すぐ家来を選ぶでしょう。

パズルを組み立てても同じこと。
100のコマがあるならば、それぞれの役割を果たさせて、そのパズルは完成であって、一個でも嫌い、一個でもイヤで、これを捨てるならば、永遠に完成しないのと一緒ですよ。

今、私が「私」と言っているのは、肉体の私ですよ。
肉体の私よりも、あなた方が、私以上の素晴らしい最高な特質・役割をもって、今生、この現象の世界に化身しているんです。

私の目に映る、皆さんひとりひとりは、すべて愛の化身であり、神の化身なんです。なぜ?
愛は肉に現れた神ですよ。

(中略)

皆さんひとりひとりには、あなた方が今まで想像すらできなかったこと、想像すらしたことのないことを、そのような素晴らしい特質を宝として、皆さんはまた役割を担っていることを知ってほしい。

誰彼が誰彼よりも上も下もないんです。
神が上・下をつけるならば、神は一元でもなければ、完全でもないですよ。
すべては平等ですよ。
ただ王を演ずるか、家来を演ずるか。

王よりも家来のほうが素晴らしい役ですよ。
王を引き立てているのは家来ですよ。
家来の働きによって王は成り立っているんですよ。
働く家来がいなければ無力ですよ。この世のドラマで見る王という意味ですよ。

本当の王は、本当の家来は、平等なんですよ。
ただ演技の仕方の違い。

ともに手を取り合って、足りないものを補い合い、良いものを分かち合い、誰も憎まず、怒らず、非難せず裁かず、すべてを命なる我として、平等にすべてに我々は顕現できるひとりひとりでありますように。

2021年10月2日平和への道・八ヶ岳セミナー「愛は肉に現れた神」より

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?