2019年最後の光話 今帰仁 年末光話③ 『神性意識』 12月31日

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意識は命

愛するは愛されるよりも美しくすべてを幸せにする。

本当にひとりひとりがその意識状態で、その境地で生きてくれるならば、世界平和は今、そこにあること。
意識は、偽我意識・表面意識・潜在意識・顕在意識……意識はたった一つしかありません。
なぜならば、意識は命なんです。
もし、意識がいくつも三つもあるならば、命は、「あなたの命」「私の命」「あなた方の命」という分離した命が存在しているということなんです。

神性意識……我は神なり。
もちろん、霊と使えば、霊性意識。あるいは仏と使えば、仏性意識。いずれも同じなんです。
神性意識・霊性意識・仏性意識。ちょうど守護神と守護霊が同じように。
なぜならば、神は霊なり。霊は仏なり。仏は命なり。
命こそがすべての原因としてすべての本質なり。
その言葉に振り回されて、錯覚している人間のなんて多いことか。
その無限という意識を、仏教では「空(くう)」と説きます。キリスト教で「天」と説きます。
じゃあ、「天」「空」は、無限意識・普遍意識・宇宙意識を表現しているではないでしょうか。

我、空なり。
我、天なり。
無限意識をあらわし示しているんです。
じゃあ、たとえば、すべての本質・原因を、私は「命」と説きます。で、あなた方が「神」と説きます。
その本質が変わりましょうか。
で、誰彼が「仏」と説きます。その本質が変わりましょうか。
それを錯覚で、我々は空で学んだがゆえに、空で以外には認めないという表現をする者がいます。
天と説いても、空と説いても、命と説いても、神と説いても、仏と説いても、本質は過去に今に未来永劫に変わらないんです。

それは、私がつまずいてわかります。
四十何年前です。明想という手段をとおして、無限意識・普遍意識・宇宙意識へ
“のぞき見”をしました。のぞき見ですよ。
のぞき見であるかぎりは、無限の智慧・無限の力・無限の愛は湧き出てはきません。
のぞき見で本質は、唯一、一つ、無限にして一つであることを実感しています。のぞき見で。
ということは、神性意識のみが実在といってもいい、“霊性”と、“仏性”といってもいいです。
私は神性意識で感じています。
体験したがゆえに私はその言葉につまずいたんです。

イエス・キリストが何と説いたんだろう。
あなた方が肉体を去った後には、無数の館が準備されていると説いています。
なぜ一元なのに、なぜ無数の館と説くんだろう?と私はつまずいたんです。
その体験がなかったならば、つまずくことはなかったんです。
しかし、そののぞき見で、その本質を体験したがゆえにつまずいたんです。

一元のなかに、なぜ無数の館を説くんだろう?
融合してそこに留まったとき、それが理解できます。
じゃあ、たとえばあなた方が1という意識状態だとします。肉体去ってどこに帰りましょうか。
1の段階です。
2という意識状態であるならば、2の方向に帰ります。
しかし、もう肉体という衣装をまとっているかぎりに「我、肉体にあらず、我、命なり」の本質を実感していれば、その境地で生きているならば、どこに迷うことなく、どこに途中下車することなく、根源の世界へストレートでそこに至ります。
これが私が体験した一元なんです。
しかし、イエス・キリストが「あなた方が肉体を去った後には無数の館が準備されている」というのは、1の意識状態は1の段階、2の意識状態は2、3の意識状態は3。
それを超えて根源の世界に還りゆくまでは、常に常に幽界に留まることほかにないんです。


幽界では高き者はどこまでも訪ねいくことができる

沖縄では、夫婦で、旦那さんが先に死んでも、奥さんが先に死んでも、火葬して骨を小さな骨壺に納めます。で、沖縄では夫婦は一つといって、旦那さんが先に死んでも奥さんが先に死んでも、後に死んだ者をまた同じところに納めるんです。夫婦は一つだといって。で、同じ場所といって。
絶対同じ場所ではないんです。
なぜならば、たとえば、旦那さんが1の段階しか理解できぬならば、そこにしか帰れないんです。で、奥さんが真理を理解して意識を高めて10というならば、10の段階と、1の段階とは絶対に違うんです。絶対に同じその場所にはいないんです。
旦那さんが1の意識状態、奥さんが1の意識状態ならば、幽界でも同じ場所にいます。
しかし、1と10で、かけ離れれば同じところにいないんです。
高き者はどこまでも訪ねいくことができるけど、低き者は高きところまでは行けないんです。
だから意識が違えば絶対に旦那さんと奥さんが一緒にいることはできないんです。
これは、肉体去ったSさんの体験からもわかるんです。
もうあの方はセミナー、セミナー、セミナーで、この現象世界のことで忙しい。
この肉体を座って明想する時間がない。
「どんなにセミナー、セミナーで忙しくても、闇に閉ざされる夜くらいはこの現象世界のすべてを手放して明想してほしい」と、私は常に常に訴えました。
しかし「私はこの現象の世界では明想する時間はない」と言うんです。「私はあの世で明想する」と言いました。
で、肉体去った後に私がその幽界まで訪ねたときに、思いは実現の母、そのとおり。もう幽界に帰って一生懸命明想しているんです。
しかし、私がそばに立っていても私が見えていないんです。
なぜなんだろう?
なぜこの状態で身近に立っていながら、なぜ私の姿が見えないんだろう? なぜ私のいることを知らなかったんだろう?

バイブレーションが違うからなんです。
これはたとえですよ。私が精妙なバイブレーションだとします。で、Sさんが荒いバイブレーションだとします。
荒いバイブレーションと精妙なバイブレーションとは、波長が合わないんです。
だから、どんなに私がここに立っていたって、いることも知らない。見ることもできない。

なぜそのようにあえてSさんの前に私はあらわれたのか?
見える状態で私がSさんを訪ねたときは、明想の妨げになるかと思って、私は光子体で、光の体でそこに立ったんです。

だから、どんなに偉大な方々が皆さんの目の前に立ったところで、皆さん自身がそれを見抜く力、これは意識状態という意味で、見抜く意識状態でないかぎり、立っていてもわからないです。
その方々が、皆さんの意識までバイブレーションを落として見えるカタチというものをもたぬかぎり、皆さんに見ることはできないです。
だから、フランスのセミナーで、イエス・キリストが蓮華座(れんげざ)の姿勢で宙に浮いていても、そのとき、あのセミナー会場を準備している方々が何十名といるけれど、一人だってそれを見えていないんです。
なぜなんだろう?
この物質という肉体であらわれたんではなく、光子体そのものであらわれたからなんです。

無数の館(やかた)があってはなりません。
館は一つ。無限意識・普遍意識・宇宙意識という館しかないんです。
言いかえれば、神性意識・霊性意識・仏性意識。その本質、一元しかないんです。
しかし皆さんは、さまざまな意識状態をつくりあげて、自らを幽界に留めているではないでしょうか。
我、肉体なり。あるいは、我、人間なり。
我、個人なり。
それを、無数の館と表現するんです。
あるいは、うらみや怒りや嫉妬に燃えて生きる人間。
我、命なり。命という本質は一つしかないんです。
我、命なり。あなた方も命なり。
我の命、あなた方の命は、全体の命。
その全体の命こそがすべての本質・原因であって、一元なんです。
じゃあ、それを知らずして、それを理解できずして、皆さんすべてを愛することができるでしょうか。
愛せぬということは、ゆるせぬということは、いたわれない、思いやれないということは、分離感というのは「私がいて、あなた方がいる」という錯覚から起こるんです。


「私がいて、あなた方がいる」という錯覚

無形・無双・無色・無臭・無音なる本質は、どうしてもあなた方の前に立つには「私」という言葉を使います。私。
しかし皆さんは「私」とは「肉体の私」。
私が「私」と説いているのは「本質・命なる私」。
で、私のみではこの現象の世界では表現できぬゆえに「私、あなた」「私、あなた方」という表現をします。
「私、あなた」「私、あなた方」。
で、どんなに顔カタチが違っていても、個性が違っていても、そのひとりひとりを追求してみてください。必ず本質につながれしことを知ります。
これは、一(いつ)なるものが多(た)としてあらわれたという表現します。
一(いつ)にして多身(たしん)にして。
じゃあ、その一にして多身は、その本質というこの本質から分離して生きていましょうか。
人間のみではなく、動物、鉱物、植物、微生物、すべてのすべてはその本質につながれしものなんです。
だから皆さんは、「私」「あなた」「あなた方」は「分離した私、あなた方」を見ます。で、そのように表現します。
私は必ずそのように皆さん前に誤解させないように必ず付け加えます。
私であるあなた。
私であるあなた方。
あなたである私。
で、あなた方である私、と常に付け加えているではないでしょうか。

それは、本質は一にして多身を知ってほしいという意味でそう説いているんです。
本質は一にして多身。
姿・カタチ・形態は異なっていても、表現の方法は異なっていても、生まれ出てきた場所、環境は違っていても、皮膚の色が黒かろうが……。白い皮膚をもった者に白い命。で、黒い皮膚をもった者に黒い命なんて、皆さん聞いたこと見たことがあるでしょうか。
すべてを創造し、すべてを建設し、すべてを生かしているのは、唯一の本質しかないんです。唯一の命しかないんです。
じゃあ、それを理解できぬかぎり皆さん、絶対根源の世界に入ることは不可能です。
絶対に、平和なんて、喜び幸せなんてないです。
分離感に幸せなんてあるでしょうか。分離感で幸せがあるというならば、それは自己満足にしかすぎないんです。


無限の至福がコンマ何秒も途切れることなく湧き出てくる境地

皆さんは明想という手段を使うために、目を閉じて座れば、さまざまな雑念が湧いてきます。
睡魔に襲われたり、雑念が湧き出てきてみたり。はたして何時間でその皆さんの雑念は収まりましょうか。静かになりましょうか。
全く私はその逆なんです。
雑念、あるいは今までの体験・経験をよみがえらそうで、そこに「湧き出でよ」と言ったって出てこないんです。
目を閉じても、目を開いても、皆さんの前に立っているときも、座っていても、ヒーリングしていても、肉体を横にしていようが、立っていようが、何が湧き出てきましょうか。
不死・不滅・永遠の至福のみがこんこんと湧き出てくるんです。
今、地球人口80億といいます。
はたして、80億の誰が今、私の状態をみることができるだろうか。誰が知ることができるだろうか。
無限の泉から、コンマ何秒留まることなく無限の至福がこんこんと湧き出てくるんです。

ヨガナンダも悟りを勘違いしました。
あたかも、瞬間移動、物質化現象、さまざまな誰彼よりも特別な能力を顕現していることが悟りという勘違いをしました。
で、教え導いているスリ・ユクテスワに言われました。
「あなたは悟りとは、一体全体なんだと思うのか?」と。
「コンマ何秒も留まることなく、永遠に無限の泉から湧き出てくる至福そのものを実感し生きていることそのものが悟りの境地」と言われたことを知ってほしいんです。
無限の泉は枯れることはありません。
愛も、智慧も、力も、与えれば与えるほど、尽くせば尽くすほど、こんこんと湧き出てくるんです。

愛を得ようとする者、愛を失い、愛を放つ者は愛を得る。
命を得ようとする者、命を失い、命を放つ者は命を得る。
持てる者、さらに多く与えられ、持てぬ者は持っているものさえも奪われる、なんです。

決して皆さんは、いと小さき、無能・無力の存在ではないんです。
ひとりひとりが、一にして多身なるひとりひとりが、その本質から受け継いだDNA・遺伝は、すべてのすべてあってあるものに対して無限力なんです。
皆さん、小さな命……聞いたことがあるでしょうか。
命が年老いたり、死んだり……聞いたことがあるでしょうか。
なぜ命は、久遠(くおん)にして常在、不滅の実在といいましょう。
火の中に投げ込まれて焼けたり燃えたりするのは、その創造され、で、ここに生かされたる物質というものしかありません。

本質そのものが、どこで生まれ、どこで死がありましょうか。
過ぎ去った12月24、25日。キリスト誕生と祝ったでしょう。
「キリスト誕生」は大きな間違いです。
私、ちょうど移動中に、(ある方が)質問に答えているのを車のカーナビのテレビで見ました。その質問に対して、全部子どもだまし。
キリスト誕生とは? クリスマスとは? で、サンタクロースとは?
ただ一つだって正しく答えているのはありません。全部子どもだまし。
皆さん、はじめからある命、今もある命、未来永劫にある命を「キリスト」と置き換えてみてください。命はキリストですから。
じゃあ、そのキリストは、どこで生まれてどこで死に、どこで死んでどこで生まれたといいましょうか?
キリストとは命なんです。
命は、生まれ死に、死に生まれ、はありえないんです。
はじめからあるもの、今もあるもの、未来永劫にあるものが、どこで生まれたといいましょうか。

だから、キリスト誕生は大きな間違いです。
何が誕生?
キリストを顕現する道具がつくられた日を、つくられこの現象の世界に下りた日を、これを“誕生”といっているんです。キリストそのものの誕生ではないんです。
不死・不滅、永遠の実在であるキリストが、どこで生まれどこで死に、どこで死んでどこで生まれもないんです。
はじめからあるもの、今もあるもの、未来永劫にあるものなんです。
だから、皆さんの肉体という表現体を生かす命は、はじめからあるもの、今もあるもの、未来永劫にあるもの。
何が生まれ、何が誕生といいましょうか。
その無限の本質を表現するこの衣装そのものが、お母さんのお腹から出てきた日を誕生と説いているんです。

だから、本質の世界を出入りできぬかぎりは、子どもたちの質問に、誰彼の質問に、正しく答えられるはずがない。すべて観念・概念で、で、子どもだましで説いて、それで満足しているんです。
皆さん「1+1が3」と教えられて、満足する者がいるでしょうか。
人類はもう気づきだしているんです。

「救われる」「救った」というのは、何を意味しましょうか。
救うというのは、救われるというのは、本質への融合なんです。
我、肉体にあらず。
我、命なり。
我、心・感情・理性にあらず。
我、命なり。
すべてのすべてあってあるものの原因である本質に一体となって融合してこそ、これを救われたというんです。


悟った者は「我、悟りなり」と言わなくてもその波動でわかる

だから私が皆さんに望むことは、私にオレンジが手渡されたならば、皆さんはただそのオレンジを眺めて「あっ、これおいしそう」。そのような観念・概念で描くあなた方であってはならない。
私から手渡されたオレンジを、皮をむいて口に投げ込んで味わってほしい。

皆さんがオレンジの味を味わったならば、そこにニセモノであるリンゴを持ってきてオレンジ、バナナを持ってきてオレンジ、あるいは何を持ってきてオレンジと言ったって、皆さん、だまされることがあるでしょうか。絶対だまされないです。

だから80億の人間が「我、悟りなり」と私の前にあらわれたって、味わっている者は見抜くんです。
悟り得た者は、悟ったと言わずとも、悟ったという匂いを与えずとも、波動そのものでわかるんです。
だから「我、悟りなり」とプンプン匂わす人間に悟った人間なんていないです。

皆さん、たとえば聖人の方々が、皆さんの目に見えるバイブレーションまで落としてあらわれたときに、「我、悟りなり」とプンプンその匂いをさせていると思いましょうか。
全く普通にしか見えないんです。
私の明想、意識にあらわれた聖人の方々が、一人だって「あなたはどなたなのか?」で私が尋ねたときに、名前を説いた者は一人もいなんです。
「あなたの思っているとおりの私です」と答えました。
「私、何々の神よ」と出てくるならば、もう幽界のいたずらであることを知ってほしい。
幽界の者は皆さんの前にあらわれてきます。「私は何々の神よ」。
何々の神なんているでしょうか。
本質は一つしかないんです。
一つのなかですべてが一体なんです。
だからこの私のセミナーでは「誰が上、誰が下」もない。
「誰が偉い、誰が偉くない」もない。
全く本質にして同等なんです。

神は人の上に人を創らず。
神は人の下に人を創らず。
一つなる本質しかないのに。
もしその一つのなかに、上・下があるならば、二元なんです。一元ではないんです。
なぜ一元なんだろう?
本質は一つしかないから一元なんです。
二つあれば二元なんです。その命が、本質が。
すべての本質は、一つなるものを皆さんは生きているんです。
わが命、あなた方の命なんです。
で、わが命、あなた方の命は、全体の命なんです。


なぜ人間は必ず上・下を決めたいんだろう?

一つなるなかで、大きい・小さいがあるならば、これは二元なんです。
高い・低いがあるならば、二元なんです。
それを、神は人の上に人を創らず。神は人の下に人を創らず。

神は完璧にそう説いているにもかかわらず、今の人間はどうでしょうか。
なぜ人間は必ず上・下を決めたいんだろう?
なぜ高い・低いを決めたいんだろう?
すべてそれは、分離という分離からあらわれた欲望であることを知らねばなりません。
ひとりひとりが、一命一体・自他一体・全一体の境地に至らぬかぎり、絶対に本当の平和なんてありえないんです。
本当の平和ならばわかりますよ。
皆さんひとりひとりに、一点の分離もない、区切りもない、差別もない。
じゃあ、その境地にひとりひとりが至れば、中国の方々がここに学びに来るのに、で、ビザを取るのに苦労することなんてありえないんです。
決して神は、本質は、中国と日本、日本とアメリカ、アメリカとヨーロッパ、そこに壁を隔てたことは、立てたことはないんです。
すべて支配欲をもつ愚か者がそのようなことをしでかしたんです。
どこに壁を立てたというんでしょう。
いつでも我々はパスポートもいらない。ビザもいらない。行きたい場所にいつでも自由に出入りできて本来の姿なんです。

一番の罪は、学びを妨げる者ほどもう最大の罪といわれていますよ。
なぜ?
根源に目覚め生きてみてください。
世界平和とつながるんです。
世界が霊的な面にして豊かになります。
じゃあ、それを妨げるというならば、悟りを妨げること。
悟りを妨げるということは、大きなカルマを背負うんです。
だから、皆さんはただ上辺のものだけを見て、戦争で殺し合ったからカルマを背負った国とかなんとか言うでしょうけど、もっともっと深いところにすべてのことがあるということを知ってほしいんです。
学びを妨げるほど最高の罪といわれていることを知ってもらいたい。


平和はあなた方の内から

人間意識・肉体意識・個人意識という偽我で平和なんてあるでしょうか。
ひとりひとりが、神性意識・霊性意識・仏性意識に目覚めてこそ、真の平和があるんです。
だから、平和はあなた方の内からあらわれるんです。
分離・差別のないひとりひとりを完成せねばなりません。じゃあその境地に至れば。

今は核を持たぬようにとさまざまな国で対立します。
あなた方の心が平和であるならば、武器をつくることがありうるでしょうか。

良いことを言いますよ。自国を護るために武器を作るんだ。
あるいはミサイルを持つんだ。で、自分を護るために銃を持つんだ。
じゃあ、自分というものは一体全体、何者なんだろう?
私は3歳か4歳で自分を追求していますよ。
自分とは何者なんだろう?

自分を追求したとき、自分が家族であることを知ります。
家族を追求したとき、家族は社会であることを知ります。
社会を追求したとき、社会は世界であることを知ります。
世界を追求したとき、世界は宇宙であることを知ります。
宇宙を追求したとき、無限なる本質に到達するんです。

じゃあ、皆さんひとりひとりは、いと小さき、弱き者ではなく、無限の一部ではないでしょうか。全体の一部ではないでしょうか。宇宙の一部ではないでしょうか。
それをあえて分離して、無能・無力に追いやっているのは自分自身なんです。

大海から立ち上がる波が「大海から分離した独立した波が私」という錯覚であるかぎりは、微々たる力しかもつことはできないんです。
しかし、わが背後に実在するのは無限の本質であることを知ってみてください。
その海から立ち上がったその波は、無限力を顕現しますよ。
我々も同じことなんです。
全体意識をもてば、全体の能力を示すんです。
すべてが我であることを知るならば、すべての能力を顕現するんです。
なぜ、無智・無能・無力に追いやっているのか?
全体から分離して生きるからなんです。
じゃあ、その一元なる本質に目覚めたとき、皆さんははっきり言い切ります。
人類は一つ。
社会は一つ。
世界は一つ。
宗教は一つ。
宇宙は一つ。
無限にして唯一の本質しか実在しないことを知ります。

まさか、全体意識のなかに融合した者が、武器をつくり合うことがあるでしょうか。武器を手にすることがあるでしょうか。
あなたがいて、あなた方がいるという分離・差別がそうさせているんです。
武器を多く多く手にしている国ほど愚か者というんです。
自国を護るため。
             
じゃあ、たとえば、一つの国だけが豊かであることができるでしょうか。
大国でも、小さな島、国々でも、島々でも、すべて地球という地球の一部なんです。
あなた方が幸せでなくして、誰が幸せがありえましょうか。
あなた方の幸せが、わが幸せ。
あなた方の喜びが、わが喜び。
あなた方の苦しみが、わが苦しみなんです。
全体意識であるならば。
あたかも人間は分離しているという錯覚をして平気な顔で生きているんです。

皆さんは、テレビとかを見て感じたことはあるでしょう。
たとえば、我々は贅沢で美味しいものをいつも朝に昼に晩に食しています。
しかし、パンひとかけらだって食べられない子どもたちがいます。世界のどこかには。
で、それを見れば、今の子どもたちはもう悲しくて苦しくて、もう食卓に置かれている物を食べることができないという子どもたちもいるんです。
なぜなんだろう?

上辺では、日本人あるいは中国人、アメリカ人、アフリカ人で分離しているようであっても、本質によってはつながっているからそれを感じ取っているんです。
それを見ても平気である者ほど分離しているということなんです。

あなた方の幸せが、わが幸せなんです。
あなた方の喜びが、わが喜びなんです。
あなた方の苦しみが、わが苦しみなんです。

これは皆さん自身には、もうみることもできない、理解はできないでしょうけど、私が与えられているかぎりの、で、尽くせるかぎりの皆さんのカルマを私が受け取ったときは、肉体という衣装をまとっているかぎりは、私の体にはさまざまな異変が起こります。声が出なくなってみたり、で、咳き込んでみたり、高熱を出してみたり。

たとえば医者は遠く離れたところで患者を治療することができるでしょうか。
医者はその患者さんを治療するためには、患者のところまで下りて交わるんです。
本質に融合した者は、あなた方とともに学び、ともにあることを義務づけられているんです。
だから、肉体衣装をまとっているかぎりは、あなた方のカルマをこの肉体という衣装に受けるんです。それを受けたときには、肉体にはさまざまな異変が起こります。
しかし、周りから見れば、咳き込んでみたり高熱であってみたり、さまざまな現象で苦しいだろうなあ……と思っています。
しかし、一点の苦しみも感じていないんです。

ただただ、あなた方の一歩の成長を喜びに、内側ではもう愛の炎が燃えたぎっているんです。
早くあなた方もその境地を味わえる、で、そう理解できるあなた方になってほしいと望みます。
しかし、その境地に至らぬ者がそうするなら、肉体を即、そこで今、即、破壊しますよ。
これから2020年というのは、それほどのパワーが力が働きますよ。
これは、神との合一を為しえた者が為しうる御業(みわざ)であることを知らねばなりません。
あなた方のカルマをこの衣装に受けたって、苦しみも感じていないです。
あなた方の一歩の成長は、自分自身の百歩の成長よりも喜べるというんです。
しかし、今の人間は…まあこれは現象的に合わせてですよ、象徴づけて…、
相手が成功する者を妬む者がいるんです。できるかぎり足を引きずり下ろそうとする者もいるんです。
霊的な面でもそのとおり。
あなた方の一歩一歩の成長を妬む者もいるんです。
一人の成長は、全体の成長につながるんです。
なぜ?

一人は全体ではないでしょうか。
一人はすべてではないでしょうか。
だから、我々ならば、あなた方の一歩の成長を喜びますよ。
その成長が、すべてのすべての者に影響を与えてくれるんです。
なぜ、相手の成長をねたむんだろう?
これほど愚か者という者はいないんです。

あなた方の成長は、わが成長なんです。
わが成長は、あなた方の成長なんです。
すべては本質につながれしものであるゆえに。
我はすべてであり、すべて我なり。
我は全体であり、全体、我なり。

皆さんが、何を探したって、一命一体なんです。
私であるあなた方しかいないんです。
あなた方である私しかいないんです。
それ以上に、それ以下に、どこにも何者もいないんです。


自分の国だけの平和はない

じゃあ、そこに人類が至らぬかぎり、つくり事の平和あって、真実の平和なんてないです。
平和であるならば、武器を手にする必要なんてあるでしょうか。
世界どこの国だって、武器のために皆さんの税金が使われているんです。一番、一番多いのは。

たとえば、その税金を使うにも、たとえば10項目あるとします。
どの国もトップにたつのは軍事費なんです。で、武器をつくるための金なんです。
世界の国々がそれを理解できるならば、世界にどんなに豊かで素晴らしい国が誕生するんだろう。
すべての国々が、すべての島が、地球の一部であるかぎり、日本の国だけ豊か、絶対ありえないんです。

今、みてみてください。あの世界の温暖化を止めようで世界の各国が必死になっていても、そこからはずれる国もあります。
他の国々がそれを食い止めたって、一つの国がその排気ガスを出すかぎり、全体に影響を与えてしまうんです。全体に及ぼすんです。
全世界が排気ガスを止めたって、どこかの国が出すかぎりは、全体に影響を及ぼします。どこかの国がそうするならば、必ず全体の影響を与えるんです。

もう一つ。今の科学者でも知らないもの。
この地球という場所の、ここは「地」、ここは「空」といいます。
この「地」で起こる地震、津波、天変地異は、皆さんには見えもしない、かけ離れた「空」でも、その影響は与えられていること、与えていることを知らねばなりません。
一点の分離もありえぬということを知ってほしい。

未熟な者ほど愛し、手を取り、愛分かち合って

ひとりひとりが早く全体意識に目覚め「愛するは愛されるよりも美しく、すべてを幸せにする」というその境地に至ってもらいたい。
これが私の最高の願いなんです。
そこにあなた方を完成させることが、最高な欲望というんです。

我々のもつ最高な希望、欲望、その執着は、世界が平和であってほしいだけなんです。
世界が平和でなければ、個人的な平和なんてありえないんです。
個人で幸せと説いているのは、それはただ自己満足なんです。

2020年迎え、我々は、この現象としてあらわれる結果に絶対に振り回されない、皆さんは本当の勇者であってほしい。

2019年振り返ってみれば、良いも悪いもさまざまな現象が皆さんの目の前にあらわれたでしょう。
そのさまざまなあらわれは、すべて皆さんを成長、完成に導くためのものであることを知ってほしい。

2020年、素晴らしき我々はその愛という流れに沿って生きていけるひとりひとりでありますように。

2019年、一年皆さんとともに学べたことを心から感謝いたします。
皆さんの成長以外に世界が平和であることはありません。

2020年、未熟な者ほど我々は愛し、で、手を取り、愛分かち合って、自らの意識状態まで高めいけるあなた方ひとりひとりでありますように。
本当に一年、皆さんとともに学べたことを心より感謝いたします。
Sちゃん、ありがとうございました。

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