今、私は何を優先すべきなのか?

〜質疑応答から〜
「聖人から祝福を与えてもらえると聞いた人々が、次々と聖人のいる山頂を目指していく。麓には、苦しそうに倒れている一人の老人がいるが、我先にと先を争う人々のなかに老人に手を差し伸べようとする者はいない。だいぶ遅れて、一人の男がやってきた。苦しみ横たわる哀れな老人の姿がその男の目に止まり、こんなに遅れてしまったのだから、聖人の祝福にはもう間に合わないだろうと、老人に手を差し伸べる。するとその瞬間、哀れな老人が聖人の姿に変わる」。

先生が光話のなかで説かれたこのお話を通して、先生は私たちに何を教えようとしているのでしょうか? という質問より……


その状況、状況を全部読めるようになりなさい、という意味なの。
真我なる自分という境地でね、一瞬一瞬歩んでいくその状況をすべてを読めるようになりなさい、という意味なの。

その男が介抱してあげたのは「この人が聖人だ」と思ってやっているんではないんです。その状況を判断してやったの。

だからあなた方もね、人生という道を歩んでいればね、何を優先すべきか? を皆さんは(判断しなければならない)。
私の家内はいつもそれを判断しているの。

今、私は何を優先すべきなのか?
ただ学び学び学びだけについて行けばいいのか? 
何を今やるべきなのか? 
全部判断しながらちゃんとやっているの。

で、もちろん優先は神ですよね。
じゃあ、家内は私について追いかけていかなければ神になれないのか?

常に日々の生活のなかで神として表現する努力をしているの、何をするにも。
「神と我とは一体なり」の努力。

明想も、目を閉じて座っているだけが明想とは説いていないですよ。
「生活そのものが明想でありなさい」と説いていますよ。

今までお母さんたちはね、肉体としての自分が、旦那さんのために子供たちのために、食事を作ってあげた、洗濯をしてあげた、掃除をしてあげた、ですよね。
しかし、家内の思い、で、また皆さんのこれからの思いは、
この肉体という道具を使い、旦那さんや子供のために……旦那さんも子供も神なんですよね。

神が神のためにこの肉体という表現体を使って表現することを常に意識する…そういう意味です。

どんなに先を先を争ったって、その状況を読んで、その表現ができなければ悟りはないですよ、と。


質疑応答 ・愛の花2018.6.2より

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?