2021.8.24 平和への道 光話「完全」の全文

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はい、Dさんが言われたように、この世のすべてをのみ込み、至福の大海に錨(いかり)下ろしていきたいと思います。

しかしそうあるためには「完全」というこの二文字をはっきりと自覚してもらいたい。
その自覚できずして大海に融合はできません。
今まで「完全」というならば、病んでいる肉体が健康になれば完全。
一時(いっとき)悩み、苦しみから免れていれば完全。
今まで上手くいかなかった仕事が上手くいけば完全。
それが完全ではないんです。

これは、皆さんが現象という結果の世界で完全を見、完全を思っているだけ。
本当の完全とは、無限意識・普遍意識・宇宙意識という根源のなかに至って完全なんです。

今日の朝の2時の明想です。
まあ、私は常に皆さんに正しく説いています。
しかし、神はこう言うんです。

根源の世界に至ったとき、見てみろと言うんです。
そこに、健康・病気、あるいは、善・悪が存在するのか?と言うんです。
無限にして一元なる…命であり、意識であり、皆さんは実相と言います。
それ以外にないんですよ。

善・悪も、この結果の世界のことであり、で、健康・病気も、この結果というこの世界のことであって、実相という本質の世界には、無限意識・普遍意識・宇宙意識という絶対実在のみなんです。
だからあなた方が、善・悪を思い、見て、生きているかぎり、完全でもなければ、本質の世界に一体となることは不可能と言われました。

何を完全といいましょうか?
不死・不滅・永遠に実在する唯一の本質以外には完全はないんです。
もちろん、皆さんに「病気を放っておけ」とは言いません。で「正しい行為をするな」とは言いません。
しかし、完全意識というのは、実相という本質の世界は、それを超えた世界なんです。
観念や概念で描けるものでもないし、思うことはできないんです。

だから、私が皆さんに望むことは、「神がああでもない、こうでもない」ではなく「そのもの」であってほしいというんですよ。

「そのもの」でなければ、私が説いている意味なんて理解できるはずないですよ。
何十年聴いたところで、それを味わい、そう生きることができぬかぎり、その境地に至ることは不可能です。

人間意識・肉体意識・個人意識という偽我で、完全が見えるだろうか? 完全を知ることができるだろうか?
だから常に皆さんには、「そのもの」であってほしいというんです。
愛は、神は、本質は、「ああでもない、こうでもない」「あれ、これ」議論できるものではないんです。
味わい、「そのもの」として生きることなんです。

だから、何回も、何十回も、何百回も皆さんに話します。
神との融合、一体ができれば、もう神からのメッセージが長々と降りてくるだろうな、と私は思っていたんです。
「我、命なり」という境地に至れば、ただ二言ですよ。

「私でありなさい」。
「私を生きよ」。

これが悟りの境地だったんです。
悟りは、山や洞窟にこもって肉体朽ち果てるまで目を閉じて座っていることでもない。
難行苦行、滝行、断食していることでもない。
まさに今日、夜中の2時に融合したその世界ですよ。
何もない、というのは、皆さんが今、見て、在る、見てとらわれているこの現象という結果、何一つ存在しないんです。
だから、それを味わった方は、覗き観した方は、必ず同じことを言うんです。

「何もなくて、無限にすべてがある」という表現します。

そのとき、この宇宙は我が創造したものである。

で、人間、動物、鉱物、植物、微生物、すべては我が創造したものである、をはっきり味わい生きているんですよ。

本や書物から学べるものではないんです。
ただ話を耳に聞いて理解できるものではないんです。
皆さんの日々の努力がそこに皆さんを導いていくんです。
我、命なり。
あなた方も命なり。
我の命、あなた方の命は、一点狂うことのない「完全」なんですよ。

その完全というのは、不死・不滅、永遠にここに今、実在するものを完全というんですよ。
明日を思い悩んで、昨日を、あるいは前を皆さんが振り返って、それに振り回されているかぎり完全意識なんて不可能ですよ。

我、肉体にあらず、我、命なり。
我、肉体にあらず、我、本質なり。

もちろん、我々はこの肉体という道具、肉体という伝導体をとおして、神そのものを愛として、智慧として、力として顕現はしなければなりません。
しかしそれは、無限という完全意識からの表現であって、現象的な肉的な表現ではないんです。

皆さん、善・悪がないというならば、皆さんはおかしいと思うでしょう。

なぜ善がないんだろう? なぜ悪がないんだろう?

これは皆さん自身がその境地に至らぬかぎり理解できるものではないんです。
どうしても皆さんは、悪い生き方をしてるよりは良い生き方がいい。
病気で生きている人間よりは健康がいい。
それそのものが実在ではないんですよ。
実在とは「実際に在る」と書きます。

実在、実際に在るというのは、不死・不滅、永遠のものなんです。

変化することもない、色褪(あ)せることもない。
朽ち果てることもない、枯れることもない、風化することもない。
久遠にして常在、不滅の実在。

これこそが皆さんが何百、何千、何万回という転生をかけて求めてきた答えなんです。
それこそが皆さんが追求、追求してきた神という神なんです。

しかし、神は言葉ではないです。
神は文字ではないんです。
そのものであること、なんです。

だから、そのものであるならば、この現象という結果の世界に振り回わされることなんてありうるだろうか?
何が、誰が、どうあらわれようが、どうカタチが変わっていこうが、それそのものが実在でないことを知るならば、何に皆さんはとらわれ、悩み、苦しむことがありうるだろうか。

結果は、影・幻・幻影にしかすぎないんですよ。
見えない本質によって映し出された影にしかすぎないんですよ。
じゃあ、健康だ、病気だ、善だ、悪だ、そうならば、それはまさに結果という結果に自縛されている姿ですよ。

だから誰が何を皆さん何と言おうが、あなた方にどういう行為で何を見せつけようが、大したことではないんですよ。皆さん必要ですか? それが・・・

人間はニセモノを掴むためにはニセモノを得るためには、目の色を変えて、で、相手を傷つけてでも、殺してでも得たいと言うけど、本物を掴むために争う人間はいないんです。
誰とも争わずに、今日の夜中の2時だって、無限という根源のなかに酔っているんですよ。
もうなかなか下りてこないんですよ。覚めないんですよ。
なぜならば、肉体という道具をしっかりと委ねてますから。
しかし今は、皆さんの前に立って、どうしても言葉を出さなければならぬゆえに、完全にその境地に酔うことはできないんです。
わずか何パーセントでもこの肉体というものを意識しないと光話ができないゆえに。
しかし、この世の仕事を手放せば、無限という根源のなかにもう酔うんです。
不死・不滅、永遠の実在のなかに、不死・不滅、永遠の至福を味わい生きますよ。
なんてこんな宝物が即、あなた方の内にあるのに、なぜ皆さんがそうできないんだろう?

あまりにも外を見すぎる。
外を見るな、内を観よ、なんです。
外に生きるな、内に生きよ、なんです。
これ以外に方法はないですよ。
「あの者が、この者が・・・」そう言い合っているかぎりは、本質の世界はどんどん遠ざかっていきますよ。
で、遠ざかっていくなかで、皆さんは肉体衣装を脱がねばならぬときがきますよ。
昨日元気だった者が家族で夕食を済ませて、「はい、おやすみなさい」で寝たら、明日起きない者、いっぱいいますよ。今、世の中に。
肉体衣装があるうちに、健康で学ぶことができるうちに、しっかりとそれを捉えてほしいんです。

まあ、中国でもそのたとえ話はあるというけど、日本でも『アリとキリギリス』。
働ける夏は、ギターを弾いてバイオリンを弾いて、歌って踊って飲み食いをしているうちに、冬が来て雪に閉ざされて、はい、私には食べ物もありません。もう全部枯れて散って、草花は。住む家も雪に埋もれて住む家もありません。恵んでください。
我々は物乞いであってはならないんです。

いつでもいつでもランプのホヤを磨いて明かりを灯していなければなりません。
そうならば皆さん、いつ、どのような方法でこの肉体に迎えがきたって、喜び、微笑み、笑いながら、天という根源の世界に皆さんはもう融合することができるではないでしょうか。

そうあるためには、この世のすべてをのみ込まねばならないんです。
あの者、この者もない。
もし、あの者、この者、が見たいというならば、愛そのものが観られる、感じられる、そう生きられるあなた方であってほしいんです。
こここのように皆さんひとりひとりの顔を眺めたって、誰彼の顔を眺めたって、皆さん、実在ではないですよ。
ないんですよ。
皆さんはしっかり、ある、いる、と思っているけど、ないんですよ。
無形・無双・無色・無臭・無音なる本質としてのあなた、あなた方がそこにあるだけなんですよ。いるだけなんですよ。
バイブレーションを上げた状態で皆さんの前に向かってみてください。
誰もいないんですよ。何もないんですよ。
ただ皆さんとともに学ばねばならないものだから、何パーセントこの肉体を、「我なり」と意識したときに、そこにバイブレーション下げてカタチが見えるんであって、カタチそのものが本来はないんですよ。
必ずや皆さんそれを体験します。

まあ、地球人口が80億であろうが90億であろうが、誰しもが必ずやそれを体験します。
今まで病気よりは健康がいい、で、悪人よりは善人がいい、ともがいてきたけど、
「あら、何もないではないのか」と言いますよ。皆さん。

肉体そのものがなければ、善・悪があるはずがない。健康・病気があるはずがない。
だから、命という本質の世界からいつも観て、皆さんに言うんです。
私は病人であってもいいんですよ。健康でもいいんですよ。
健康・病気には支配されないんです。

肉体という衣装をまとって肉体の影響を受けぬ自分。
家族いて家族に執着しない自分。
この世を生きながら、この世の支配を受けない自分。
悪のなかにいて悪の影響を受けぬ自分。
闇のなかにいて闇に染まらぬ自分。
迷いのなかにいて迷わぬ自分。

それが皆さんが到達しなければならない完全意識なんですよ。
「何かが在る、いる」と、みているかぎりは、皆さんは絶対その境地には入れませんよ。

何もない世界に入るためには、何もなければならないんですよ。
何もない世界に何かを背負って入ろうなんて入れるはずないですよ。
仏教では…あれは真実ではないと思うんだけど、よく「三途の川を渡す」という表現があるけど、ただ一点ですよ、一点一物背負っては、皆さん泳ぎ渡れないということをたとえているんですよ。
皆さん一人でさえも、泳いでかなりの…これは何キロか、あるいは何十メートルか知りませんけど、それを一人で泳いだってここに到達できないのに、誰かをおんぶして、何かを背負って渡ってみてください。溺れ死にますよ。

仏教で教えている「三途の川を渡る」というのは、「飛び立つ鳥、後を濁さず」なんです。
いつか我々はこの衣装を脱がねばなりません。
脱ぐときは皆さんの意識状態に一点でも不調和あるならば…じゃあ、不調和とは何なのか?
私が元子さんとケンカしているだけが不調和ではないですよ。
誰彼と対立していることが不調和ではないですよ。
不調和というは、もうこれは無数ありますよ。

よく108の煩悩とか言われるけど、108ならば少ない方ですよ。その何倍、何十倍背負っている方々がいますよ。
だからその方を見て…本質は無限の命、輝きですよ、もちろん。しかしそのように生きている人間は真っ黒なんですよ。
それで三途の川、渡れましょうか?
これが「飛び立つ鳥、後を濁さず」なんだろうか?
これがすべてをのみ込んだ姿だろうか?
どんなに本質の世界に入ろうたって不可能ですよ。落ちていく以外にはないんですよ。

なぜならば、まあたとえば…完全意識なんて描くことも文字で書き示すこともできないけど、無限光だとしますよ。無限光。
無限光だとするならば、じゃあ、一点の汚れ、一点の曇りもって、無限光のなかに入れるだろうか?
不可能ですよ。

だから、神は誰一人落ちることなく、落とすことなく、みんな実相という根源の世界に連れ帰りたい。
しかし、無限光の光のなかに入るためには、そうでないかぎりは、一点でも荷物を背負っているかぎり…荷物といいますよ、あのうらみや怒りや嫉妬でも執着でも、もうこれは無数のさまざまなことがあるでしょうけど、一点一物背負っては帰れない。
なぜならば、入ろうとしたって、で、神は連れて帰りたいけど、本人がもうここに入れる意識ではないんです。
なぜならば、光と闇とは同調できない。
光は闇知らず、と追い返されるしかない。で、自分自身の行けるふさわしい場所に下りてて来るんです。幽界に。
これが幽界の仕組みなんです。

だから、神が誰彼を選んでいるんではないんですよ。
神は、想像を絶するものを、ここに命を与えて招いたではないでしょうか。

招かれし者は多いけど、選ばれし者のなんて少ないことか。

それは神が選んでいるんではないんです。
神は、「あなたは天国、あなたは地国」で、そう識別して差別しているんではないんです。
己の創造した被造物、で、己の愛し子(いとしご)であるならば、誰も一人も落とすことなく欠けることなく連れ帰りたいですよ。
しかし、そこに、無限光、光のなかに入れるか、入れないかは、自分自身で決めてるんですよ。
だから、今日の24時間、一日一瞬一瞬、我々は、一点の執着も残さぬように、一点の曇り、一点の汚れ残さぬように、磨いて磨いて磨き上げようと我々は努力の一日なんですよ。

いつ肉体をどういう方法で脱がされても、いつでも喜び、いつでも微笑み、いつでも笑いながら、光の世界に飛び込める、融合できるあなた方であってほしいんです。
じゃあ、今、ここにだって招かれていない者が一人だっているだろうか?
地球人口、あるいは動物や鉱物、植物、アリ一匹だって、命与えられたものは招かれていますよ。
だから、「世界人類が平和でありますように」ではないんです。
「すべてが、全体が平和でありますように」なんですよ。
それは、宇宙、地球、人間、動物、鉱物、植物……私はそれをすべてと言います。すべてを含まれてなんですよ。すべてを含んで。
人間だけが招かれたんではないんです。
誰彼だけが招かれているんではないんです。
命を与え生かされているものは、すべて招かれたものなんです。

それを聖書では…まあ、聖書を読んだことはないけど、今、それが浮かびます。意識のなかに。
スズメ一羽だって神の御心を通さずにしてこの地に落ちることはない。
偶然に一羽のスズメが飛んでいるということはありえないんです。
招かれたからそこにいるんです。
招かれたからすべて存在するんです。
じゃあ、特別があるだろうか?

招かれしものは多いけど…それはすべて命を与え生かされているということ。
で、そこで、選ばれしもののなんて少ないことか、というのは、本当に自分という自分を追究して、自分というその本質を理解できたか、だけなんです。

子どもは遊ぶのに忙しい。
若者は恋に忙しい。
大人は心配事で忙しい。
不死・不滅、永遠の宝物を掴むために忙しい人間はいません。

何をさておいてもですよ。何をさておいても、まず本質から手に入れなさい、なんですよ。

じゃあ、皆さんが今、欲しているもの、希望しているもの、なんであったって、それはすべて無限という命の支配下に置かれているものではないでしょうか。
被造物が創造主よりも上ということは、どんなにどんなに天地をひっくり返したって永遠にそうあることはないです。
必ずや結果は常に原因の支配下に置かれているんです。

だから、すべてを支配したる命という根源に皆さんが融合してみてください。
何百年、何千年も、もうカルマ、カルマ、カルマというカルマに支配されていたあなた方。
カルマだ、業だ、罪だ。あるいは輪廻転生。あるいは運命に支配されて。
あら、何もないではないのか、と言いますよ。
すべて己自身が…己とは命ですよ、命。命そのものが支配している結果であることを知りますよ。輪廻転生もカルマも業も罪も、あるいは運命も。
皆さんは、そこにもう至ろうとしているんですよ。
皆さんはいままで、運命は実在しない、という言葉を聞いたことがあるだろうか?
本や書物で読んだことがあるだろうか?

運命は実在、あるものと誰も信じてますよ。
運命を超越できぬかぎり、本質の世界ではないですよ。命ではないですよ。
命が運命を背負い、命が輪廻転生という鎖に繋がれ、で、命が業や罪やカルマに支配されているならば、それは完全と言えましょうか?
すべてのすべてあってあるものを完全に超越し、それは「のみ込む」とも言いましょう。のみ込み、もう根源そのものに至ってそれが完全を知るんです。
この世の人間は、なぜ完全、完全とは言うけど、なぜ完全を知らないんだろう?と神は言うんですよ。
完全のはき違いですよ。

ただ病んでいる肉体が健康になれば完全。
悩み、苦しみから一時(いっとき)免れれば完全。
で、自分自身の思わしいことが起これば、今まで上手くいかなかったことが上手くいけば完全。
すべて本質そのものの支配におかれてる結果で「ああでもない、こうでもない」のもがきなんですよ。それも。

ただ完全という言葉を、それ以上にあらわし示しようがないものだから、皆さんに、で、人を傷つけたり、人を苦しめたり、人を不愉快な思いにさせている悪の表現よりは、善がいいですよ、ということで善を語ってることであって、しかし、それそのものも超えたところを知ってほしいんです。皆さんに。
その程度で完全であるならば、皆さんもうすでに融合していますよ。完全意識のなかに。
なぜ融合しきれないんだろう?

完全の思い違いをしているからなんです。

この世界にあって、この世界が見えぬあなた方であってほしいんです。

その意味が理解できるだろうか?
「見えるのに見るな」って、「見えるではないのか」って皆さん言うでしょうけど、この世界にあって、あるいはいて、この世界が見えないあなた方であってほしいんですよ。

誰がこういうことを説いた者がいるだろうか?
聞いたことがあるだろうか?
ないですよ。
40年の光話で、セミナーで、はじめて今日、私語るんだから。

何が実在しているんだろう?
無形・無双・無色・無臭・無音の永遠・不滅の本質。
誰彼がいるかぎり、あるかぎり、本質の世界に融合は不可能ですよ。

だからいつも言うんですよ。
この世の者であって、私はこの世の者ではない、という表現するんですよ。
どこにいるんだろう?

無限という大海に錨(いかり)下ろしてますよ。
だから皆さんに、善・悪も実在ではない。健康・病気も実在ではない、は、その境地から皆さんに語るんですよ。
何があるんだろう?
誰がいるんだろう?
愛として神の本質のみですよ。

我、命なり。
あなた方も命なり。
我の命、あなた方の命は、全体の命。

全体の命こそがすべての原因、本質であるならば、皆さん、あの人の言葉やこの者の行為に振り回されて混乱するものに値するものことがあるだろうか。値するものなんてあるだろうか。

皆さんは、「いる」と認めているから苦しんでいるんですよ。
もし皆さんの目には見えないカタチなき幽霊が、皆さんに「バカ」と言ったら、皆さん絶対に振り回されないでしょう。
今まで元子さんに「バカ」と言われたならば、そのバカに反応し、バカに皆さんは怒りもあっただろうし、憎しみ、さまざまな現象があったでしょうけど、今日から皆さん、元子さんを幽霊だと見てください。幽霊。
幽霊が語ったって、もう痛くも痒くもない。それ知りますよ、皆さん。
「バカ」と言ったって、「あっ、幽霊が言っているんだ」「あっ、幽霊が表現しているんだ」。簡単なことですよ。

だからその超え方というものを、自分自身で皆さんは…
じゃあ、今、湧き出てくる怒り、嫉妬、あるいはうらみ、心配、不安、恐怖……どうすれば克服できるんだろうかを皆さん考えてほしいんです。

肉体なんてはじめからあるものではないんです。
今もあるものではないんです。
未来永劫にあるものではないんです。

皆さんにこの見える目を神は与えたがゆえに、皆さんは苦労しているんですよ、それを超えるために。見えるんだから。
第一の反発者は私だったんだから。
眠りについて、睡眠に入ろうか、その変わり目にきたとき「目を開け」と言われたときに反発しました。「盲目よ」と言われたとき反発しました。
なぜ見えてる者に「目を開け」というんだろう?
なぜ見えてる者に「盲目」と言うんだろう?
今ちょうど皆さんがそういう現象ですよ。
なぜ見えてるのに盲目?
なぜあるのに、見えるのに、掴めるのに、なぜ「ない、ない、ない」と言うんだろう?
だからこの世は、ニセモノは本物のように見える。触れるんだし。で、しっかりと見えるんだし。
しかし、本物はニセモノのようにみえ、ニセモノは本物のように見えて、矛盾した世界で、皆さんは今しっかりと本質に至ろうとするその厳しさはわかりますよ。

だから、イエス・キリストも言われたんです。
この目が真実を観るために妨げている。
だから「この目が真実を観ようとするのを妨げるならば、目を潰せ」と言ったんです。
で「この手が本物を掴もうとするのを妨げているならば、手を断ち切れ」と言ったんです。
だから、片目を失っても、片腕を失っても、根源の世界に入ったほうがいい、という表現までしていますよ。

私は優しいもんだから、皆さんにそこまで言わないんです。
「目を潰せ」、あるいは「腕を切りなさい」とは言わないです。
過去、幾転生では目を潰した体験があるから。槍で。
二度とそういう言葉を出さないように、もうしっかりとインプットしてきているんです。

だから「無限」という、「愛」という一文字を説くのに、非常に厳しく説くイエス・キリスト。非常に強さで説くモーゼ。で、優しく説くお釈迦様。
そのように3名をたとえてもこんなにもタイプが違うんです。
だからあなた方だって、性格や個性、それは表現の方法が違って当たり前。
しかし、根源からずれてはいけないんです。

常に皆さんの思いは、言葉は、見方は、で、表現は、本質そのものの想いでないといけないんです。これが、

神が想い給うが如く、我、想います。
神が観給うが如く、我、観ます。
神が語り給うが如く、我、語ります。
神が表現し給うが如く、我、表現します。

じゃあ、神はどんなに皆さんが悪態をついても、で、皆さんがどんなに非難・批判を向けても、わが愛おしい子に何を想っているんだろう?

美しき大愛ですべてを想い、観て、表現していることを知ってほしいんですよ。
一元なる本質は、想うことも、言葉も、行為も、その一元なる本質の表現しかできないんです。

だから、じゃあ本質のこの言葉が「愛」であるならば、愛しか想えない、愛しか語れない、愛しかみえない、愛しか行為できない、ということなんです。
じゃあ皆さん、うらみや怒りや嫉妬や、ゆるせない、愛せない、憎い、嫌いは、あれは本質の御心の表現だと思いましょうか?

だから、本質の想いからずれていくだけ自分を苦しめるんです。
誰のせいでもないんです。
私が一度だって苦しんだことがあるだろうか?
なぜ?
そのものとして常に、「愛するは愛されるよりも美しく、すべてを幸せにする」と生きるからですよ。

誰がつくったんだろう、分離感……うらみ、怒り、嫉妬。ゆるせない、愛せない、憎い、嫌いは。
偽りの我がつくり上げたものなんです。
だから苦しみもがくんです。
神は愛の法則であるならば、神の愛の法則のとおり我々が道を歩み行くことができるならば、神道です。霊道です。仏道です。それを愛の道、慈悲の道、といいます。
じゃあ、それを歩む者に苦しむ人間がいるだろうか?

皆さん、今日の夜中の明想で教えられたことがもう一つ。
その「裁き」という言葉。
これ皆さん、完璧に今日聴いてくださいよ。
これ絶対、絶対、自分の心の底に皆さん落としてくださいよ。
「裁き」という言葉。「裁き」という文字。
今まで皆さんの裁きは、間違った行為をしている人間を、非難・批判、そういことが裁きって勘違いしてますよ。裁き。
裁きというのは、その程度のものじゃないですよ。

皆さんを肉体意識で見ているならば、それは裁きですよ。要注意ですよ。
人間意識・肉体意識・個人意識という、偽我なる我が、あなた方に思いを向ける、言葉を語る、で、行為を……それそのものがもう裁きですよ。
裁きというものは、間違った行為を徹底して非難・批判して裁いていることを裁きではないですよ。
もう、ただ女性として男性としての肉的なあなた方を見ている、そのものがもう裁きですよ。
このように、真実の答えが常にわが内から渾々(こんこん)と湧き出てくるんですよ。
なぜなのか?
一歩でもいい、一段でもいい。あなた方を成長してほしいという思いには、必ずやこのようなメッセージやインスピレーションやその天啓が渾々と湧き出てくるんです。
今日のこの二点。
本にも書き記されていないでしょう。
どの宗教でも学んだことはないでしょう。
誰彼からも聞いたことはないでしょう。
この裁きというその言葉、文字。

人間意識・肉体意識・個人意識というその偽我で皆さん思い、見て、で、行為であるならば、それそのものがもう裁いているんですよ。
間違った行為を正そうとして非難・批判していることそのものが裁きではないです。
それ以前に、人間意識・肉体意識・個人意識という偽我そのもので、思い、見て生きていることそのものがもう裁きなんですよ。
今日の完全意識という「完全」と、この「裁き」というものが理解できただけ、皆さんは大きな成長を遂げますよ。今日。
これがこの三日間のセミナー終わるまでに本当に心の底の底に落としいくことができるならば、もう飛んでるような境地を皆さん味わいますよ。

私がセミナー終わって、この入り口に立って、皆さんひとりひとりがここを出ていくのを全部チェックしてみましょう。全部しっかり見てみましょう。
もう重たくて、重たくて(と出ていくなら)…絶対理解してない。もう一層背負っただけ、ここで。混乱して。
理解した者はスーッと飛ぶはず。
もうしっかりしっかり、私がセミナー終わって皆さんひとりひとりがここを出ていくときにチェックしていますよ。
誰がチョウのように舞っていくんだろう?
誰がロボットのように足をバッタンバッタンさせてそこを出ていくんだろう?
もう皆さんはチェックが厳しくなければやってくれないんだから、そこまでしないとダメ。
なんて私の仕事を増やしてくれたか…(笑)
光話でも足りない、ヒーリングでも足りない。
また、あれチェックマンではないですよね? コンロの火を点けるあれは? チェックマンとは言わないよね? あれ何て言うの?
(会場から返事:チャッカマン)
チャッカマン?…ああ、私はチャッカマンではない。チェックマン。
もう、今日から皆さんの帰り、チェックマン。ああ良い言葉を覚えましたよ。チェックマン。いつも見てますよ、チェックマンは。
もうそこまでチェックしないとやってくれないから、今日からチェック。
チャッカマンではないですよ。皆さんを燃やしにきたんではないんだから。

ぜひ「完全」という二文字。
「裁き」というその言葉、文字。
しっかりとしっかりと今日は心に染めていってほしい。
おそらくその二点を皆さんが完璧にとらえることができるならば、相当に皆さんは意識拡大されていくでしょう。

じゃあ、日々の生活のなかで皆さんは、完全、完全、完全、は語るんだけど、完全を知ってないで完全を語って意味がないですよ。
裁きも、浅いところで、裁き、裁き、と言ったけれど、本当の深い裁きなんて今日はじめて聞くでしょう。

単なる肉体としてのあなた方しか見えない、思えない、で、その行為しかできぬならば、それそのもので私はもう裁いてるんですよ。

おそらくそこまでは聖書にもないと思うんです。聖典にも仏典にも。
肉体去ったときに、皆さんが三途の川がたとえあって渡されるにしても、一点の曇り、汚れもなければ、皆さん、喜び、微笑み、笑いながらいつでもそこを渡れますよ。
それを、黄金の翼広げ、天空高く飛び立つ不死鳥のごとく、なんです。
肉体衣装を脱がされる前に、この現象という見える世界は実在しないということを、はっきりはっきり、影・幻・幻影の世界であり、無常の世界であって、実在したものは一物もないということをはっきり捉えてほしい。

我、肉体にあらず、我、命なり。
我、肉体にあらず、我、真理なり。
我、肉体にあらず、我、本質なり。

それが皆さんが何百、何千、何万回という転生をかけて求めてきた答えです。
もちろん、この世を否定しなさいではない。
この世の金儲けを捨てなさいではない。

何が皆さんがやるべきことなのか? はっきりそれを自覚してもらいたい。

金儲けに来たんだろうか?
地位・名誉を得るために来たんだろうか?
最高学位を得るために来たんだろうか?
何をさておいても「そのもの」でないかぎり失敗です。

そのものでありなさい。
そのものを生きよ。
私でありなさい。
私を生きよ。

それは本質です。
我、本質として、日々に日々に一瞬一瞬それを顕現してほしい。
それが何百、何千、何万回という転生を繰り返してきた最高目的なんです。

はい、この三日間のセミナーで、皆さんもうチョウのように、この出口から舞うように出ていってくださいよ。もうドッシンドッシンは私が手錠をはめますよ。
「我、肉体なり」はしっかり手錠がはまりますから。手錠をかけられますから。
しかしチョウのように舞う者はかけられないんですよ。もう実相に…

はい、ともに努力していきたいと思います。
本当に我々の学びためにLさん、Dさんはじめスタッフの方々に心から感謝します。
ありがとうございます。

そのまま明想に入っていきたいと思います。
いつものようにこの会場で流されるオーム(AUM)の波動に合わせて意識を無限に広げ、拡大してみてください。



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