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どこから出てきたんだろう? どこに向かって旅しているんだろう? 旅の目的は何なんだろう? どこに帰るんだろう?


これ、私、40年前に説いています。

今までの悩み、苦しみの相談は、肉体的な面・・・お父さんがガンで、お母さんがどうで…そういう相談がいっぱいありました。

しかしこれからは精神的な病いにいくだろうと言いました。肉体的な痛みは、痛み止めや医学を用いれば克服することもできましょう。

しかし、精神的な病いは、己が自殺をするか、相手にその怒りを向けていくか。
さまざまな影響を及ぼしてきます。

なぜ悩み、なぜ苦しみ、なぜ肉体的な不調和が存在するんだろう?


つい最近ニュースを見れば、あのお父さん、お母さんが自殺し、でまた本人は自殺未遂といわれたそのニュース。

「死んで他の世界に行く」あるいは「行きたい」とか、そういう表現されています。

自殺したい人間、一歩立ち止まって考えてほしい。私が2歳に追究したように。


(人間は)どこから出てきたんだろう?

どこに向かって旅しているんだろう?

旅の目的は何なんだろう?

旅の目的、終えてどこに帰るんだろう?


その答えを引き出すことができるならば、自殺する人間はいません。

あたかも悩み、苦しみから逃避して自殺すれば、“良い世界”に帰れると錯覚をしています。

良い世界は心の中にあることを見失っているんです。


自殺グセのある者は、何百、何千、何万回という転生を繰り返しても、その自殺グセを修正しゆかねばなりません。

たとえば皆さんが、10の悪いクセ、悪習と言いますよね、悪いクセ、思いグセ。それを今生、背負って出てきたとします。
「10」ある思いグセのうち「9」は皆さんが完璧に修正できたとします。まあ、自殺グセなり、またうらみグセであり、嫉妬グセであり、怒りグセを、たった一つを残しただけで、その一つを克服するために、何百回、何千回、何万回という輪廻(生まれ変わり)を繰り返している人間がいるということを知ってほしいんですよ。

死んですべてが終わりならば、どうしてここに我々が肉体をもつ必要があるだろうか。

死んで人間どこに帰るんだろう? 

死んで墓というけど、墓場から向こうはどういう世界が待っているんだろう?

2歳から追究していますよ。
皆さん、死んでどこに帰ると思いましょうか?


今、いるところを知らなければ、帰るところを知ることはできないですよ。


2歳の当時、その質問に私が納得いくほどの答えを答えきれた大人は一人もいない。

まず、お父さん、お母さんに質問しました。「死ねばすべて終わり、なぜそういうことを追究するのか」と言われました。納得していません。

だから、「答えを外に求むることなかれ、答えわが内にあり」を、学んだんです。

「死ねばすべて終わり」って教えられて、一層、疑問はふくれました。

わずか人生60年、70年、80年、死んですべてが終わりならば、なぜ我々はここに生まれてくる必要があったのか?って、私はまたそれを追究したんです。

たった答えは一つですよ。

私、私、というけれど、その“私”と思い見ている私、何者なんだろう?

その答えを出すまで宿題は続きます。たったその答えですよ。
私はその答えを引き出したんです。答えを見出したんです。

今までは、この肉体という道具を“私”という思い、見てきていました……我、肉体なり。しかし、それを追究することにおいて、

肉体は、一転生、人生行路を旅するための一時の乗船であることを知りました。

あるいは、命を愛として、命を力として、命を智慧として表現するための“道具”であることも知りました。

乗船である肉体を、道具である肉体を、「私、私、私」で生きていること、
これ、“迷い”と言うんですよ。錯覚なんですよ。幻覚なんですよ。

錯覚から覚めよ。

幻覚から覚めよ。

これが40年も朝に昼に晩に説いている光話の内容ですよ。たったそれだけです。これ以上、何もないんですよ。ただ右から左から、皆さんはどのようにすれば、皆さんがわかってくれるんだろう? 理解してくれるんだろう? であって、伝えたいことはたったそれだけ。

錯覚から覚めよ。

幻覚から覚めよ。

肉体船が我として、で、命を正しく美しく表現するためのこの道具を“我”という錯覚をしているその錯覚から覚めよ。たったそれだけを朝、昼、晩、40年説いてきました。


そこに至るまでは、つまづきもします。
あの宗教ならば救ってくれるか? この宗教にいれば幸せになれるか? 
つまづきもします、転びもします、落ち込みもします、失敗もおかします。

しかし、それはすべて皆さん自身が、己を正して本質という根源の世界へ融合し、完成のためにある試練にしかすぎないんです。

悩みや、苦しみ、不調和、肉体的な病い。落ち込んだり、失敗をおかしたり、つまづいたり、転んだり、それはすべて皆さんを完成に導くための手段にしかすぎないんです。

その手段に負けて自殺していく人間のなんて多いことか。

これから自殺しようとする方々に言いたい。もしチャンスあればそれを皆さんが伝え、で、教えてほしい。

「自殺して逃げたって解決されないことを知ってほしい」ということ。

自殺してすべてが解決できるならば、もう我々はみんな死んでますよ。早いですよ、自殺したほうが。さっさとこの世を去ったほうが。
しかし一点だって解決はできません。
己が何者であるかを完成するまで続きますよ。その宿題は。


自分とは何者なんだろう?

どこから出てきたんだろう?

どこに向かって旅してるんだろう?

旅の目的は何なんだろう?

旅の目的を終えてどこに帰るんだろう?

それを私は完璧に答えを出したがゆえに、この現象世界の何ものも私を振り回すことも、混乱に追いやることもできないんです。

これ、「我、この世のすべてをのみ込み、至福の大海に錨をおろす」とたとえているんです。

命は、歳取ることがあるだろうか?
命は、死ぬことがあるだろうか?
命は、病み、苦しむことがあるだろうか?
命は、明日はどうなっていくんだろう? 
明日は世界はどう変わっていくだろう?
それに心配、不安、恐怖に怯えることがあるだろうか?

命は、はじめから完全、今も完全、未来永劫に完全なんです。

それ(命)をイエス・キリストは“神”にたとえて、「神が完全であるように、我は完全なり」と説いたんです。

命は何の影響も受けることはありません。
久遠にして常在、不滅の実在。

この世の無知が、闇が、悪が、迷いが、わが内なる命に指一本触れることができるだろうか?

我、この世の闇、無知、悪、迷いを、すべてを超越した者であるといえるあなた方になってほしいんです。

皆さん、私の命を触ることができるだろうか?

この肉体という道具は触ることができても、触れることができでも、私の命には触れることできないですよ。
この世の武器や刃物でこの肉体は傷つけても、命そのものに傷つけることは不可能ですよ。

ゆえに私は永遠に安泰ですよ。
なぜならば、命が本来の我であることを私は知ってるがゆえに。

「久遠にして常在、不滅の実在」とは、久遠とは永遠の私、常在とは常にある私、不滅とは一度だって破壊されたことのない私、実在とは実際にある私。

じゃあ、肉体はどうなのか?

一瞬一瞬、変化していますよ。生まれて何年、何十年経てば、皆さんの肉体もここまで変化してきたではないでしょうか。

生まれ落ちた瞬間からこの肉体は墓場に向かって進んでいるんです。
墓場から遠ざかっていく肉体なんてないですよ。

だから、永遠に生きたいならば、久遠にして常在、不滅の実在の、“命という本質”に目覚めることですよ。

これを目覚めというんですよ。

皆さんは目を閉じて寝ます。今日の夜。明日目を開いて起きる。「ああ、目覚めました…」。
誰も目覚めてない。
「我、肉体なり」という錯覚で目覚めた者なんて、この世界に一人だっていないですよ。

本当の目覚めとは、

我、肉体にあらず、我、命なり。
我、肉体にあらず、我、本質なり。

それを理解したとき、「目覚めた」と言うんですよ。

我は命なり、命が我なんですよ。

だからこの“肉体”をある聖人はこう言いますよ。
「あてにならぬ友」と言ってますよ。あてにならないですよ。

今日は褒められて有頂天になり、明日はけなされて落ち込んで苦しんでみたり。このように上がったり落ちたり、あの海の波のように揺れていながら、どうしてそこに至福なんてありうるだろうか?

褒められて有頂天になり、けなされて落ち込んで苦しんでみたり・・・

褒められようがけなされようが、関係ないんですよ。

褒められて有頂天になる必要もない。

けなされて落ち込んで苦しむ必要もない。

なぜなら、皆さん生かされている目的をしっかりつかんでみてください。追究し、つかんでみてください。

この世に褒められるためにいるんでもない。

この世にけなされるためにいるんでもない。

しっかりと命という本質を我として顕現するためなんです。

これが生かされている最高目的なんですよ。


2023年6月30日 天使の会『いきる』より


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