結局誰が言うかどうか

こんにちは。大学生を生業としているものです。

今回、考えるテーマは、「何を言うか、誰が言うか」という言葉、発言についてです。なぜ今回このテーマについて綴ろうと思ったかというと、私自身このnoteを書くに至ってどうすれば人に上手く伝えることが出来るかということについて、考えたからです。


・誰が言うかによって言葉の重みが変わる

 これは単純な話で、子供と大人の話どっちが信用できる、プロのスポーツ選手とアマ選手のアドバイスどっちが参考になるといったことが例として挙げれます。確かにアマ選手のアドバイスで参考になる部分もあるでしょうが、やはり多くの場合プロ選手のアドバイスに耳を傾けるのではないのでしょうか。

・発言した人の信用度

 言葉の重みが変わるのはその人の社会的信用度であったり個人的な信用が関わってきます。あの人は世間に認められている人だから信用していい、あの友人がそんなことするはずないといったようにその人に対する信用から、バイアス(偏見)が存在する場合があります。

 バイアスがかかっていることがいけないというわけではないですし、私自身も、基本的にはいわゆる肩書がある人の意見は「そうなんだ~」と受け取る場合も少なくはありません。

・誰が何を発言してもいい

 誰が何を言ってもいいというのは前提としたうえで、個人が発言する場合について考えます。他人が、どのようなことを言っても私自身には関係のないことですが、自分自身が発言するさいにどのような発言が人にうまく適切に伝えることが出来るのでしょうか?

人に上手く(ここでいう上手くは適切)伝えるためには「身の丈に合った発言をする」というのが挙げられます。

これは決して、無謀なことを言うな、大きい夢を持つな、それを他人に伝えるなと言っているわけではありません。

むしろ私自身はそういうことを考えることもあります。
しかしながら例えば、例えば模試の偏差値が50の友人が毎日の勉強時間が1時間で「東大に行きたい」と言っていたなら、皆さんどう思いますか。
私は「無理だろ」と答えます。

しかしその人が毎日8~10時間勉強していたとします。私なら、実際行けるかどうかは置いといて純粋に心から応援するでしょう。

つまり、大きな目標を持っているのはいいのですが、それについて発言するには今の自分自身がそれを言える立場であるかどうかが重要だと私は考えます。

・本質的なことを言っていたとしても

発言の重さを持たせるのはその人の人柄、社会的信用という要素がありました。つまりどんなに正しくて本質的なことを言っていたとしても受け取る側の人はそれを懐疑的な目で見る場合があります。

やはり自分の意見を相手に伝えるにはその人自身の今までの努力が無意識的にみられていると思います。

だからこそ私はこのこと自体は問題ではないと考え、本当に信用してもらいたいなら努力はすべきだと考えます。

・信じ切る?or懐疑的な視点を持つ?

基本的にアドバイスをもらったときにそのアドバイスをした人は自分より先のルートにいる人で参考になる場合が多いです。

そしてその発言はそのまま信用し実践すべきです。
考えるより先にアクションをして考えるのはそのあとでいいです。

もしかしたらそのアドバイスした人と自分ではそのアドバイスをこなす力に差があるかもしれない。その場合は自分に合うように修正すればいいし、そもそも根本的に合わないあるしそれならやめたらいい。

まずはそのアドバイスを純粋に信用し行動に移すの物事を始める第一歩になるのではないでしょうか。

・私自身も一大学生である身として・・・

私自身も現状はただの一しがない学生で高校時代の勉強方法の記事を書きましたが、当然私よりできる人は多くいるわけであって多くの場合そういった方の意見が参考になります。

それでも私と似たような状況や性格の人にはあってるかもしれません。
今後もそういった人に私のnoteが届いたらいいなとおもいます。

閲覧ありがとうございました。


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