コミュニティと空気について

「空気」が場を支配するとよく言われる。

ここ日本で「空気」を語る時は、その言葉はさらに特別な意味を持つ。
「空気」支配は、他国の人にはない、日本人独特の感性のように捕らえられているのだ。

陶片追放や異端裁判なんかも、「空気」のなせるワザなのだから、日本にしかないということわけではないとは思うのだが、
なんにせよ、日本はこの「空気」を目の敵にしつつ、「空気」に支配されているということが、日本的共通認識であるようだ。

最近世間を騒がせている、日本企業の不正や、運動部の不祥事も、まさに「空気」の仕業だろう。

コミュニティを語る時に、毛嫌いするような反応、拒絶反応を示す人は、この目に見えない「空気」を畏れているのだと思う。
たしかに、不正を起こした企業もコミュニティだし、日本的運動部もコミュニティだろう。
隠蔽は、コミュニティを守らなければならないという「空気」が醸成されることで起こる。


「空気」を破壊したものに待っているのは、よくて村八分、悪ければ全社会的に抹消されるかもしれない。
コミュニティを畏れるものは、コミュニティが誰かを迫害してきた歴史を認識しているという点で、コミュニティの一側面は捉えている。

たしかに、コミュニティに「空気」はつきものだ。
安全・安心が担保されれば、そこに「空気」が生まれる。
アットホームな雰囲気みたいなものは、そのコミュニティの「空気」を作り出す。
その「空気」が、コミュニティ外の人に、排他性を感じさせることはあるかもしれない。



しかし、この「空気」を毛嫌いする姿勢は、本当に正しいのだろうか。

『「空気」の研究』で、山本七平は、以下のようなことを述べている。(まとめると)

「空気」という「ある」ものを「ないこと」にして、抹消してようとしてきたのが、明治啓蒙主義以来の日本人の伝統である。心理的・宗教的影響を感じることは、科学的姿勢ではないと断罪された。本来は、科学的ではないはずのものが、人間になぜ影響を与えるのかを考察するのが、真に科学的態度であるはずである。しかし、「ある」ものを「ないこと」にすることで、逆に歯止めが効かなくなり、「空気の支配」を決定的にしてしまった。
と述べている。


コミュニティを宗教的であると批判する人の心理もこれと同じであると思う。
まさに、最近流行りのオンラインサロンに対する、宗教的という評価も、同じところに根ざしているのだろう。


だが、コミュニティの中の人間が、「空気」など存在しないと、主張することは本末転倒である。
批判するものと、なんら変わらない態度だと思う。
だからこそ、我々は自分たちのコミュニティの「空気」を見つめ、この厄介な目に見えないものが、どのような作用を持っているのか、内外に対して悪い影響を及ぼしていないかを確かめ続ける必要がある。

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