馴染みの店
師走の、忙殺される毎日。
最後のチャンスと向かった先は、馴染みの店だった。
そこは寿司屋で、入れば右手にカウンター、左手には小上がりの4人席がみっつほど並んでいて、大きい店ではない。
扉を開けると、誰が入ってきたかと伺う顔をした大将が、こちらを認めて「いらっしゃい」と笑顔で出迎えてくれる。
女将はまだ、奥でお茶を飲んでいるようだ。
店には誰もいない。
カウンターに腰掛けた。
「今年最後になりそうだから来ました」
「そうかい」
「しめもの、いくつか握ってもらえますか」
「はいはい」
そう言って、まず出てきたのは2合徳利と先付け。
ちょっと間を置いて、サバにコハダ、アジが2貫ずつ並んだ。
「お客さん、入ってないね」
「火曜日だからねぇ」
「火曜日って、やっぱり人が入らないものなの?」
「まぁ、病院とか自衛隊の連中が来るような曜日じゃないなぁ」
「そうか、じゃぁ、やっぱり普通は土日なんだね」
なんでもない会話と、ネタにちょうどよくきいた酢。
これで今年も終わったなぁと思える優しい味だ。
と、そこへ女将がやってくる。
「あら、いらっしゃい。Rさんを呼ぼうか」
こちらの返事も待たずに電話する女将。
「Rさん?今Aさんがきてるんだけど、今年これで終わりだって。一局ささんかえ。」
程なくしてRさんが来た。
小上がりには、大将が将棋盤を用意している。
「この前は勝ったね」
「そうですねー、あれは完全に負けました」
「じゃぁ、今回はどんなかなぁ。あんたとやる将棋は楽しくてねぇ」
嬉しい言葉だ。
ただ、やってみたいことがあるから指すだけの、考えなしの将棋だ。
これを「楽しい」と言ってくれる人は、この人だけだ。
程なくRさんの先手で将棋が始まった。
開始早々、思わしくない局面に突入した。
互いに玉を囲い、開戦したが、攻め始めたのはRさん。
攻めが続けばRさんの勝ち。
しのぎ切って一手でも先手を取れれば、こちらの勝ち。
わかりやすい展開になった。
程なくしてRさんからため息が漏れた。
「だめだーおらっちの負けだ。勘の使い所が違うっちゃ。いいセンスしてる。こんなに短期間で強くなる人、今まで見たことがないっちゃ。いやーこれは楽しみな人が現れたなー。」
嫌味がない。
快活で、爽やかな人だ。
徐々にこちらが優勢になるように導き、上手に勝たせてくれた将棋だった。
「母ちゃんが迎えに来てるから、帰る。またな。」
「良いお年をお迎えください。」
「あいあい」
そうしてRさんとの挨拶を終えた。
大将と女将、そして僕の3人の時間が流れた。
頼んでもないのに、緑茶を入れてくれた。
「もう今年も終わるんですね」
「いや、まだ寿司屋の仕事は終わらんよ。年末はかき入れどきだから。」
「そうか、みなさん帰ってくるんだ。」
「そうそう。帰ってくるな、休みたいから勘弁してくれ、と言っても、家族だからね、帰ってくる。そしたら祝い事さ。寿司が必要になる」
「大将も大変だなぁ」
「俺は慣れてるからいいよ。」
女将が参った顔になった。
「この人はいいよ。ずーっと寿司屋なんだもの。でもあたしは違う。朝6時に起きて生活していたのに、嫁いだら昼夜逆転。朝5時に寝て昼間に起きるような生活に変わったんだ。大変なことだったよ。今は慣れたけどね。」
休んでいる人がいれば、働く人がある。
言われれば簡単な話だ。
頭が上がらない。
「じゃぁ、そろそろ。明日も仕事があるから。今年はもう来れないけれど、来年また仲良くしてください。よろしくお願いします。」
「いやいや、こちらこそね、助かりました。」
「良いお年を」
「はい、おやすみなさい」
誰が何を言ったのか覚えていないが、年末に必要な言葉は一通りやりとりした。
来年は勝てるかな、将棋。
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