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読了・なだいなだ「常識哲学」


 noteに記事を書くのがなかなか習慣づかない。学級通信は担任していた時は毎日書いていたのにな…。とにかく、1か月は続けてみたい

 今回は、精神科医のなだいなださんの最後のエッセイ・講演録。ユーモアの中にちくっと、言葉を織り交ぜたエッセイの連載を楽しみに読んでいた。なだいなださんが亡くなられたときに購入したのを、再読してみた。

 あらすじをざっと(Amazonの書評っぽく)説明すると…

第1章は、講演録。
 哲学や先人の言葉からヒントをもらいながら、アルコール依存患者の完全断酒を目指すという医療の「常識」を見直し、断酒へ挑戦する気にさせることが医者の果たすべき役割だという定義を見つけるという話。

「偏見」=「古い常識」と考え、鬱・躁病は「北杜夫病」と名付ける、とりあえず一日を生きる「とりあえず主義」など、少し毒のあるユーモアを交えながら楽しく読むことができる。

 第2章は、主に第1章の補足となっている。後半は「常識」という言葉について、トマス・ペイン「コモンセンス」を中心に西洋哲学史を辿る。

 ヨーロッパでは「コモンセンス」は「良識」「知性」などと訳され、神が人間の中に仕組んだ「絶対的」なものと捉えられている。それに対し日本の「常識」は雑学をもとに作られた判断力でできており、誤りや独善性があるため、より広い社会とときに変えられていく「相対的」なものと捉えられた、などとその違いが語られる。なるほどと思った。

 途中で絶筆となったのが悔やまれる。

 第3章はショートエッセイ集。時事の話題を取り上げながら、社会の一員としてもつべき共通ミニマムの知識を「コモンセンス」として社会の基本にしようという提案や、「常識」とは何かを考える「常識哲学」の必要性を説く。

特に心に残った二つの「名言」がある。

「有用性だけで判断せよ。」(E・M・ジェネリック)
「常識とは、人間が18歳までに作り上げた偏見のコレクションである。」(アインシュタイン)

この本で著者が言いたいのは、「常識とは何かを常に問うこと」の大切さだ。「そんなの常識だ」と人が言うとき、ほとんどの場合は思考停止に陥っている状態だ。役に立つかどうかという基準で「常識」を問い直し、「偏見」を排しながら、アルコール依存症の治療に取り組んだ筆者の姿は、哲学を実生活に活かした好例に思う。

ところで、わたしは、「本当の賢さ」とは何だろうか。

私は、子どもたちにはこう説明している。

「さまざまな視点から物事を考え、真実を見つめようとする力」

テストの点数が賢さではない。知識や教養を学び、努力やさまざまな経験を知ることで、人は多様なものの見方ができるようになるという旨を、子どもたちに伝えるようにしていた。今回再読したことで、さらにその思いが強くなった。

グローバル化が進み、多様な価値観が衝突する世界では、文化も言葉も考え方も異なる人たちと意見を合わせていかなくてはならない。そこでは、さらにその「賢さ」が必要になるからだ。

また、コロナ禍は私たちの「常識」が脆いものだったことを知らしめた。当たり前だと思っていたことが当たり前ではなかったことを、身をもって知った。そして、さまざまな人権課題が明るみになった。

ポストコロナの世界は、「答えは何かわからない」世界だと私は考えている。そんな中で常識にとらわれず、「答えは何か」を探し見つけるには「常識」と呼ばれることを見直していく学びが必要だという筆者の主張は、今になって一層説得力を持って読者に呼び掛けてくる。

このコロナ禍のさなか、日本国民の「コモンセンス」が露わになっている。
われわれの「常識」は何か、それを問い直すときは、まさに今だ。

(今回、再読したことで、初めに読んだときは気づかなかったことに気づけたと思う。こういう読書の仕方もおもしろい。)



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