四天王寺「新縁起」第38回

前・四天王寺勧学部文化財係
主任・学芸員 一本崇之

五重塔の再建

 室戸台風によって倒壊した五重塔の瓦礫を前に、人々は呆然と立ち尽くすしかありませんでした。しかしすぐに一山の総力をあげて五重塔を再建すべく動き出します。
 昭和9(1934)年11月、五重塔再建に伴う基壇の発掘作業が、京都帝国大学教授であった建築史家・天沼俊一氏を中心に行われました。その結果、文化再建の塔心礎に埋納された舎利容器が四方を銅板で囲う形で発見され、塔心礎の下からは木造薬師如来像や素焼きの釈迦如来千体仏が見つかっています。 さらに、倒壊した塔心礎の3・6メートル真下からは創建期(飛鳥時代)の塔心礎であると考えられる大盤石が発見され、塔や中門の基壇周辺では飛鳥時代~奈良時代の瓦が多数出土しました。
 これら一連の発掘調査は、五重塔の位置が創建当初より動いていないことを証明する、古代史学上の極めて重要な発見となりました。 その後、この創建期の心礎の上にはコンクリートによる堅牢な基壇が建設され、現在も創建期の心礎は五重塔の地下深く保存されています。
 さて、金堂の修理と中門・五重塔の再建という大事業は、当寺住職であった木下寂善師指揮のもと、伽藍復興局営繕課長となった出口常順師が取り組むこととなります。 
 再建にあたり、まずは塔を木造とするか鉄筋コンクリートとするかが問題となりました。当時の法律では30メートル以上の建造物は鉄筋コンクリートを用いることと規定されていたからです。五重塔は伽藍の中心となる信仰上においても重要な建物ですから、何とか木造での再建を実現すべく大阪府や国の担当省庁と幾多の協議を重ね、ようやく建設の許可が下りたのでした。
 木造と決まると、建築に必要な木材を調達するため、出口師が奔走します。中門や五重塔の再建に必要な膨大な巨材の収集は困難を極めましたが、帝室林野局や各地の営林局の取り計らいにより、高野山や高知から特別に巨木を入手することができました。
 昭和12(1937)年4月12日、各地より集められた五重塔用材の巨木が湊町駅(現在のJR難波駅)に集結し、そこから四天王寺まで木曳式が盛大に挙行されました。その行列の華やかなさまに涙する市民もいたといいます。翌年5月には3つの巨木を接いで、総長137尺(41メートル)もの心柱が完成し、5月22日に五重塔初層立柱式並びに舎利塔納入式が行われています。 
堂内の仏画及び極彩色は堂本印象、四天王立像を新納忠之助、扉彫刻を明珍恒男、四天柱幡を山鹿清華が担当するなど、当時を代表する作家たちが力を尽くしました。今は写真でしかその様子を知ることができませんが、絢爛豪華な堂内荘厳は人々を魅了したことでしょう。
 昭和15(1940)年5月22日、室戸台風より6年の歳月を経て再建され、五重宝塔落慶大法要が5日間にわたり挙行されました。この五重塔の再建に際しては、各所から多数の寄付や支援が寄せられたことから、昭和新塔は「百万合力塔」と称され、この善意を記念して境内に石碑が建立されています。
 
(注)筆者の一本氏は6月より大和文華館の学芸員に就任。
   よって、肩書は「前・四天王寺~~」としております。

 

昭和再建の五重塔(写真の無断使用は禁止いたします)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?