四天王寺「新縁起」第37回

四天王寺勧学部文化財係
主任・学芸員 一本崇之

室戸台風の猛威

 昭和9(1934)年、京阪神地方を襲った室戸台風は、四天王寺にも甚大な被害をもたらしました。
 9月21日。その日は彼岸で、縁日のため朝早くから多くの人々が境内を訪れていました。最初は小雨程度であった天候も午前7時頃から風が急激に強まります。参詣をあきらめて多くの人が帰路につくなか、中門や五重塔の周辺には避難する人々が集まってきました。当時五重塔には、中島・平野ら4名の番人がおり、おびえる人々に「この塔は未だかつて倒れた例はないのであるから大丈夫です」と声をかけて回ったといいます。
 逃げ遅れた人がいないか確認するため、五重塔内の上層に登った中島は、尋常ではない塔の揺れに恐怖を覚えます。やっとのことで地上に降りた中島は、塔下に集まった人々に危険を知らせ、「命が惜しいならここを早く逃げてください。塔の上層はすでに危なくなっておりますぞ」と呼びかけます。これを聞いた人々は金堂の方へ一目散に逃げだしますが、まだ十数人はじっとその場から動こうとしません。中には「この塔は決して倒れぬ。もし倒れるようなことがあったならば、大阪はおそらく全滅するであろうから、そんなことはあるまい」と言い張る者もいました。
 中島は再び塔内に入り、基壇にしがみつきながら、平野とともに四天王立像や唐戸が倒れないように支えていました。その目の前では、金堂前にあった大きな賽銭箱が、金具の摩擦で火を噴きながら、西の回廊まで飛ばされていきました。
 午前8時頃、轟音とともに一瞬にしてあたりが粉塵で真っ暗になりました。中門が五重塔に向かって倒壊したのです。強風を直接受けるようになった五重塔は、揺れをさらに大きくしていきます。いよいよ身の危険を感じた平野は、意を決し塔外に出ますが、強風によって北東の用明殿近くまで吹き飛ばされてしまいました。
 強風にさらされた塔は南北に大きく揺れ、次第に塔全体が傾斜しはじめます。そして中央部が折れ曲がったと思った瞬間、そこがばらばらになり、塔は上層部から北側へ倒れていきました。その時、塔内には13人の参詣者と番人がとどまっていました。
 1週間に及ぶ必死の捜索活動が行われましたが、膨大な瓦礫を撤去しながらの作業は困難を極め、中島と2名の参詣者が救出されたほかは皆助かりませんでした。中門倒壊による被害者と合わせて死者は15名にのぼっています。
 この台風で、中門・五重塔が完全に倒壊し、金堂も大きく破損しました【写真】。倒壊後の五重塔の調査では、心柱をはじめ側柱(がわばしら)や四天柱の一部が朽損していたことが判明しています。また、展望台として上層を開放していた関係で、桔木(はねぎ)の一部が取り除かれていたという証言もあり、これらによって構造的な負担があったことも倒壊の一因となったようです。
 こうして、町衆の力を結集し文化10(1813)年に再建された五重塔は、50年を絶たずしてその姿を消したのでした。

「倒壊した中門と五重塔」(写真の無断使用はご遠慮ください)


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