四天王寺「新縁起」第30回

四天王寺勧学部文化財係
主任・学芸員 一本崇之

宝蔵とその宝物

 正倉院や法隆寺の綱封蔵(こうふうぞう)のように、寺院には宝蔵と呼ばれる宝物の収蔵施設が必ず設置されており、四天王寺も例外ではありません。古くは校倉(あぜくら)造の蔵が存在していたことが知られ、近世の絵図には、高床で2棟の校倉を中央が吹き抜けとなるようにつなげた双蔵(ならびくら)形式の蔵が描かれています。現在、本坊南側にひっそりと建つ宝蔵【写真】は、享和元(1801)年の雷火の後に再建されたもので、「釘無堂(くぎなしどう)」と通称され、大阪に遺る稀少な近世校倉として大阪市指定有形文化財に指定されています。
 古来、宝蔵に収められる什物はお寺にとって特別な存在でした。それゆえ、寺の由緒を紹介する史料にはかならず「宝物目録」が収録されています。比較的早い時期の「宝物目録」(『四天王寺年中法事記』貞享2〔1685〕年 所収)に列記される宝物をあげてみると、『四天王寺縁起』根本本(国宝)・同後醍醐天皇宸翰本(国宝)・扇面法華経冊子(国宝)・細字法華経(重文)・楊枝御影・懸守(かけまもり。国宝)・緋御衣(ひのみころも。重文)・達磨大師袈裟(現存せず)・鳴鏑矢(重文)・丙子椒林剣(へいししょうりんけん。国宝)・七星剣(国宝)・京不見御笛(きょうみずのおふえ)・閻浮檀金弥陀三尊(光背のみ重文)・千手観音箱仏(重文)・千本琴の品々で、これらは以後の宝物目録にも必ず記載され、数ある什物の中でも最も重要なものと位置付けられていました。そのほとんどが現在、国宝・重要文化財に指定されています。
 このなかでも、聖徳太子が実際に所用していたと伝えられる『四天王寺縁起』根本本・丙子椒林剣及び七星剣・懸守・細字法華経・緋御衣・京不見御笛・鳴鏑矢の七件の宝物は、「太子伝来七種の宝物」と呼ばれ、さらに別格の扱いを受けてきました。これらは、四天王寺における太子信仰の核となった宝物であり、太子の寺であることの証ともいえる「聖遺物」なのです。この七種の宝物は、四天王寺が「太子からお預かりしている」という形をとり、宝蔵では毎年元日の朝、太子より七種の宝物を預かる儀式である「朝拝式」が行われています。
 この他にも、天王寺楽所伶人の東儀家より寄進された蘭陵王・納蘇利の古面や、遠江法橋筆の聖徳太子絵伝(いずれも重文)などが近世になって宝蔵に新たに収められていますし、元禄5(1692)年には、柏原市にある安福寺の浄土宗僧・珂憶(かおく)上人より、総数144点に及ぶ大規模な宝物の寄進を受けています。このように各時代を通じて寄進された宝物が収蔵され、多様な「四天王寺宝物」を形成していきました。
 四天王寺の宝蔵は、一舎利・二舎利・秋野それぞれによって封印され、宝物を拝見するためには、この3人が立ち会わなければ開封できないようになっていました。宝蔵の宝物は、当寺の歴史と信仰の根幹をなすものとして、それほど厳重に守られていたのです。
 現在宝物館には、宝蔵旧収蔵品を含め5000点を超える宝物が、大切に保管されています。

図2 現在の宝蔵

現在の宝蔵 ※写真の無断使用はご遠慮ください。

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