いや哲学してるやん

猛暑が猛り、コロナもコロり、オリンピックもオリっている今日この頃、いかがお過ごしでしょうか。

21歳の大学生です。最近将来を漠然とは考えてはいられない時期に入りました。なのに将来のことなど考えず、人に話すまでもないどうでもいいことを書きました。忙しい人が読むものではありません。




まだ読んでるあなた、ごゆっくりどうぞ。




先に自己紹介をひとつ。私は現在心理学科に通う大学3年生である。私は高校生の頃に7年続けていた野球を辞めると、ほとんど帰宅部の文化部に所属し、部活動に打ち込む周りの同級生の姿を見てはひどい劣等感を覚えていた。この“ひどい”というのがポイントで、大学生になって本格的に心理学を学ぶ中で当時の自分はしっかりうつ病だったという事実をやはり確認することとなった。当時の何をするにも纏わりついてくる黒い感情に何度も押しつぶされそうになった私は長いトンネルを抜け、同じ黒い感情に取りつかれている人を助けたいを思うようになり、カウンセラーを目指すべく心理学科に入ることを志したのだ。



私は最近運転免許証を落とした。深夜に酒を買うためにコンビニまで足を運んだのだが、その日一歩も外を出ていなかった私は運動のためにと2キロ先のコンビニへ向かった(そういう人間です)。21歳と、合法的に飲酒できるようになって1年経ってもやはり未だに年齢確認というのはされるものである。往復4キロ歩くとなると身軽な方がいいなと思い、私は500円玉と運転免許証、たばことライターとケータイをポッケに入れ、出発した。装着したイヤホンから最近お気に入りのMomの曲が流れる。深夜の雰囲気も相まってすでに酔っぱらっていると捉えられてもおかしくない。気づけばコンビニに着き、一服しようとポケットに手を入れると、角が取れたプラスチックの、ゲーセンのプリペイドカードみたいな四角い、自動車を運転するときには持っていなきゃいけないあのアレが入っていなかった。まぁまぁ、反対のポケットだろうと前の車のお姉さんと目が合いつつ肺胞殺しの煙を吸い込んだ。

無い。

私は一服済ませると、祭りの次の日に屋台が並んでいた辺りで小銭を探す中学生の如く目を見開いて四角い白いカードを探し、来た道を戻る(2キロ☆)。もう家まで500mくらいの距離で、そもそも持って来たっけ免許証?などと思いながら諦めかけていると、確かに私のものとしか考えられない免許証らしきものが裏返って道の端っこに落ちていた。私は素直にこう思う。

あるんかい。

私はお笑いが好きで、こういうプライベートで起きた話は芸人さんのようにエピソードトークとして話してみんなを笑わせたい欲求がある。

いや免許証あんのかい。

私はそう思いつつも面倒な手続きをする必要がないことや個人情報を悪用されることのない事実に安堵し、免許証を拾い上げた。


生きているとこういった、おもしろ話にしてはオチがない、話題にするにしては人を選ぶ、そもそも話してみようとも思わない出来事や話というのがたっくさん転がっている。


最近私は週1ペースで本を読んでいる。3年生になって漠然と頭良くなりたいと思い、急に本を読みだした。一丁前に好きな作家ができ、活字嫌いの人間だった私も生意気に「本を嗜める」ようになった。今日読んでいた本というのがアガサクリスティーの『春にして君を離れ』という本なのだが(全然まだ読み終わってない)、この本に出てくる主人公のジェーンは旅行の帰路で天候に恵まれず、砂漠に建つ宿泊所に5日間ほど滞在させられることとなる。この宿泊所というのも、周りには何もなく退屈で、中はオイルのにおいがしたり虫が鏡を這いずり回っていたりと衛生面に不安を抱いてしまうような建物で、ジェーンは中に居るよりはと外に散歩に行く。そこでも何もすることがなく、自分の半生を振り返る。その日私は家から4つ隣の駅にあるカフェでコーヒーを飲みながらこの本を読んでいたのだが、最近の私は毎日酒を飲んでいるためか夜型生活の不摂生が原因かでみるみる太っていたため、歩いて帰ることを決心した(そういう人間です)。約4キロの帰路での私は、イヤホンから音楽は流れているものの、気分はさながらジェーンである。コロナによって都合よく削れていった、今思えば不必要な人間関係や時間などによって今の私には、川下の石のようにきれいに丸くなった(おじゃる丸のカズマなら話しかけてしまっていたであろうほどにきれいな)私の欲求だけが残った。全く悪い意味ではなく、いい意味である。余計なしがらみが無くなって私は今、本当にやりたいことだけがやれている(ありがとうおとうさんおかあさん)。私の人生を私のために生きているというのは非常に人生に誠実な気がするし、何より楽しい。コロナとの生活にも慣れて己の欲望丸出し人間となった私は大学生活も終わりが近づいているという精神的逼迫も後押しし、やってみたかったことを積極的にやってみることにした。まずやってみたかったギャンブルをやってみることにした。親には内緒で新しく口座を作り、2年生のころ1度だけ行って当たらなかったけど楽しかったボートレースを始めた。付随して競馬にも手を出してみた。楽しい。当たらずとも推しの選手が出るとなるとどうしてもアタマで買いたくなる。登録してからほとんど毎日ボートレースをするようになり、しっかり負けている(ごめんねおとうさんおかあさん)。毎週日曜の15時頃から競馬番組がテレビで放送されるのも、パチンコ屋におっさんが集まるのもよく分かった。そして次に私は本を読むようになった。三谷幸喜が脚本で日本版にリメイクされたアガサクリスティーの『オリエント急行殺人事件』が2015年にフジテレビの開局55周年記念企画として放送されたのだが、それを見た当時の私はとにかくめちゃくちゃ面白かったことだけ覚えていた。私はTSUTAYAでその『オリエント急行殺人事件』が準新作の欄に並んでいるのを見て「おお!」と思い手に取ってみるとそれは海外でリメイクされた映画だったのだが、これをきっかけに私はアガサクリスティーの小説を読むことにした。まだ5作程度しか読めていないが、ヤツの話はすんごい面白い。あなたが作品を見てて疑いを向けるその人はたいてい犯人ではない(いやよく考えればミステリーサスペンスはどれもそうだ笑)。興味あったら読んでみて(『ABC殺人事件』とか)。あとそういえば髪染めてみたかったんだと思い、急に真っ赤に染めてみたりした。

こうした流れの中で私はボートレースに詳しくなるし、本読みになるし、知らないことを知っていく。すると前に爆笑問題の太田光さんがラジオで「自分で学ぼうと思うことが学問の入り口なんだよ。」みたいな持論を結構熱弁していたのを思い出す。まさにその通り。ボートレース勝ちたいがゆえに「行き足」「出足(であし)」とかいう用語を覚えたり、コース別の選手の成績とか特徴なんかも調べたりする。アガサクリスティーのおもしろい小説世界に入り込むために変な翻訳の日本語を調べたり、イギリスのクリスマスは日本のクリスマスと違って大きな意味合いを持つイベントなのだと知ったりする。うん、太田さんの持論は合ってる気がする。所詮私たちは自分が興味を持ったことにしか興味が無いのだ。だから何だということはなく、そんなことを考えながら歩いていると家まであと2駅のところまで来ていた。

大学1年生の頃、2つ上のたばこを吸う先輩に「たばこってお金とかかからないんですか?」という質問をしたことを思い出し、あの時の自分めっちゃ野暮じゃんとか、あるたった一言とかたった一つの行動でその人を信頼する瞬間ってあるよなとか考えていたら家まであと1駅。

私は普段こういった自分について真面目に深く考えることがとても苦手であり、嫌いである。高校時代に痛いほど自分と向き合ってきたことで傷ついてきたことを思い出す。考えて考えて、自分はどうしようとか自分はダメだとか、自分はあいつとは違うとか、段々ネガティブな方向に思考が傾いてしまうのだ。大学に入ってからの私は、こういう場面に遭遇しても上手に躱せるようになっていた。そして最近は自分の人生に誠実に向き合うことで自分の中の芯のようなもの、軸のようなもの(?)が固まってきている気がする。恐らく同期がこのようなことを考えるのは私よりも後になる人が多いのではないだろうか。何も考えず漠然と生きているのではないだろうか。なんて高校生の頃から持つ心の面での同期への優越感とナルシズムを感じていた(そういう人間です)。でもこの軸を持つとか芯を持つとか信念があるとかいう言葉はなんか私の中でしっくりこないなぁと心の中のリトルホンダならぬリトルワタシ(私)が首をかしげていた。

家に着き、コップに水を入れてベランダに出ると、左手で「もうやめたら~?」というお節介な横風をガードし、肺胞殺しの煙を吸い込む(ごめんねおばあちゃん)。私は今の私の状況に当てはまる言葉を探していた。

「自分の信念が構築されてきている」が正しいんかな~?

なんて思っていると、ふと、オードリーの若林さんがロンブーの淳さんに言ってたような気がする、

「淳さんには“自分のお笑い哲学”がありますよね」

という言葉を思い出した(ケンコバだったかも)。哲学………?調べてみよう。学問の入り口である。

(Googleの検索で出てきた最初の説明文をまんまコピペします。)

哲学(てつがく)とは、語弊を恐れずにわかりやすく言えば「真理を探究する知的営み」のことです。 世界の根源や本質を見極めるための知的探究的な取組み、および、その知的探究を方法的に進めるための学問です。 ただし、この「哲学は真理を探究する知的営みである」という見解は、ある程度は妥当としても、決定的な定義ではありません。




「うわ、俺、哲学してんじゃん。」







「哲学やん。」



「いや哲学やないかい。」

東北生まれ東北育ちである私の中の関西人格がツッコんでくる。



「俺、哲学してたんか。」

「哲学しとんがな。」

なんか笑けてくる。今私は人生の中で哲学してたんか。哲学してるやん。哲学するてwwww


夏休み明けの心中町中学校(こころなかまち中学校、略して「心中」)3年1組の教室は、もどかしい調子で友達の席を訪ねる三木達也、外を眺めて黄昏る山木裕子、机に突っ伏して関わりを遮断する田島かおり、みんなに会えてはしゃぐ男女たち約40人が朝のホームルームを待っている。一番廊下側の一番後ろの席の私は、不規則な生活のせいでボーっとしたままの頭で久しぶりの教室を眺めていた。前の席の寒いノリが特徴の丸坊主野球部男子、祐介は同じ野球部の優馬と大輝と竜二の4人で掃除ロッカーの前で乳繰り合っている。真ん中列の右側、前から4番目の、何をするにもバレてしまうその席に、「佐田」という苗字に生まれたがために不運にも座ることを命じられてしまった男、佐田翔希がこっちに近寄り、祐介の席の背もたれに両手を乗せながら座る。

「おはよ~」

翔希は笑顔で眠そうな私に話しかける。バドミントン部だからそんなに日焼けはしていないみたいだ。

「おはよう」

私は眉を吊り上げて返事をした。

「竜(私)は夏休み何してたん?」

当たり障りのない質問をしてくる翔希に私は堂々とこう答える。

「哲学。」


こんなミニドラマを想像してニヤニヤするくらいに私の中で“哲学”という単語、正確には「いや哲学してるやん」が頭の中を駆け巡り、絶対これでツッコもうと思った(そういう人間です)。さらにこの私的ドンピシャな言葉に、ミカサが初めてエレンの巨人を見た時のように高揚していた。



っていう、マジでどうでもいい話でした。

ここまで読んでくれたあなたに幸あれ。


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