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『旅はうまくいかない』⑧

チェコ編⑧「それなら、もう一杯ビールを!」

飛行機に乗れば酔い、枕が変われば、眠れない、食べなれない物を口にすれば、お腹を壊す。そんな軟弱者だが、

知らない場所には行ってみたい。 今回はチェコのプラハと田舎町ミクロフへ。チェコビールを飲みまくり、混浴サウナにドギマギし、熱波のヨーロッパにヘキエキする。旅はうまくいかない方が面白い。チェコ八日間の旅。

ほどほどにプラハ城を見学して、観光客が増える前に去ることにした。プラハ一の観光地だけあって、団体客が多い。特に中国からの観光客がたくさんいた。

僕らはプラハ城を後にするとき、一人の女性から話し掛けられた。

「あの、日本人ですか?」と彼女は日本語で言った。だがイントネーションはどこかおかしい。

「そうですけど」と僕が答えると彼女はさらに言った。
「日本語が聞こえたものですから、つい懐かしくて」

どうやら彼女は中国人で、以前に日本に住んでいたことがあるようだ。
「私、日本に留学していたんです。千葉商科大学です」
チェコまで来て、千葉商科大学という言葉を聞くとは思わなかった。千葉商科大学には縁もゆかりもなかったが、なんだか嬉しくなってくる。

「そうですか。僕らは東京から来たんですよ」
「こんなところで日本人に会えて、とても嬉しいです。私、日本が大好きなんです」

嬉しい言葉だった。今は中国のどこかに住んでいる女性にとって、日本での留学生活はとっても良いものだったのだろう。でなければ日本が好きだと言わないはずだ。

彼女は日本語で話したくてたまらない様子だった。だが、団体旅行で来ているので、次の観光地に足早に向かわなければならないようだった。

「いい旅行を!」と言って僕らは別れた。彼女に日本が好きなんです、と言われたとき、僕らも中国が好きです、と言えないことが少し寂しかった。

僕らは中国という国を知らなすぎるのだ。確かに上海や香港、マカオには行ったことがある。だが、それで中国を知ることができたかといえば疑問だ。

唯一の思い出である十年前の上海も、決していいものではなかった。とにかく騒がしい街で、いつも大声で誰かが喧嘩している印象しかなかった。

電車に乗るときも列を作らない。コンビニのレジもすぐに横入りする人がいる。それはトイレに並んでいるときも一緒だ。そして誰かが抜かすたびに喧嘩になる。もうすこしなんとかならないものかと思ったほどだ。

もっとも衝撃を受けたのは、小さな子供の手をひいたお母さんが、赤信号の横断歩道を渡っていく姿だ。信号でさえまもれない人たちに、世の中のルールを守らせることは無理なように思えた。

だが中国が、ひとつの中国、と呼んでいる台湾はまったく違う。島国ということもあるが、誰も彼もが旅行者にやさしいのだ。飲食店でまごまごしていても、隣の席の人が注文の仕方を教えてくれる。駅で切符が買えなくても、すぐに親切な駅員が飛び出してくる。とにかくいい思い出しかない。

きっと台湾の人に、日本が好きです、と言われたら、すぐに、僕らも台湾が大好きだと言えるだろう。特に僕は初めて行った海外が台湾だったから、余計に思い入れがある。

同じ民族でどうしてこうも違うのだろうか。いったい共産主義というのは、人々に何を残したというのだろう。それはロシアにも感じることなのだが、資本主義の中でサービスという付加価値に馴染んでいる僕らにとって、社会主義だった国々での客対応によるストレスは応えた

ふと帰りの飛行機であるアエロフロート・ロシアのことが気になった。行きのようにどこか別の国の飛行機に変えてもらえないだろうか。自分で買っておいてなんだが、無事に帰れる気がしない。

プラハ城からの坂道を降りながら、僕らは昼ごはんをどこで食べるかを考えていた。

「ここから三十分ほどのところに、修道院が経営している店があるんだ。そこのトラピストビールなんてどうかな?」と僕は言った。

トラピストビールというのは、修道院が作っているビールのことだ。日本だとお寺がお酒を作っているなんて言ったら、違和感しかないが、チェコだけではなく、ビールの本場であるベルギーでもこのように修道院がビールを作っているところが無数にある。

お布施だけではなく、自分たちで経済的に自立するために、そのようなビールを作っているのだ。特にキリスト教ではお酒を飲むことを禁じてはいない。キリストの血に見立てて赤ワインを飲むくらいだから、それはそうだろう。

よく考えれば、日本でも神社ではお神酒が出るくらいだから、特におかしなことではあるまい。

地図を見ながら、その修道院に向かって歩く。それにしても暑い。気温は三十度を越えているだろう。本来なら二十度前後の涼しい気候のはずなのに、サハラ砂漠で熱せられた偏西風のために気温が異常に上昇しているのだ。フランスでは四十度をこえる場所もあったとテレビのニュースが言っていた。

快適なヨーロッパの初夏を味わおうと考えていたが、当てが外れてしまったらしい。だが寒いよりはいいように思えた。僕らはすっかり開放的になってTシャツ一枚で過ごすことにした。

石畳に古い石の建物が連なる街は歩いていて飽きなかった。何本か素敵な路地裏があり、僕らは躊躇なく紛れ込んでいった。

いい気分だった。だが、ふと地図を見ると自分がどこにいるのかわからなくなっていることに気がついた。

道が斜めになっていることや、寄り道を繰り返したために、方向感覚を失ってしまったらしい。

どこかでネットが使えるといいのだが、と考えていると、妻がトラムの駅にwi-fiがあることに気がついた。

さっそくネットにアクセスして地図を開き、自分の位置を確認すると、目的地の修道院からは遠く離れていることに気がついた。はじめから逆方向に歩き出してしまったようだ。

「どうする?このままトラムに乗って一度ホテルに戻る?」と僕は訊いた。

「嫌だわ。私はトラピストビールが飲みたいんだけど」と妻は不機嫌な声を出す。でももう歩く気力はないようだ。

「それなら、向こう側のトラムに乗れば、少し時間はかかるけど行けるはずだ」

僕らはトラムの番号を確かめると、次に来たトラムに乗った。

まったく歩いてきたことが無駄になる道程だった。実際にプラハ城の入り口近くまで戻ることになったのだ。

とんだ寄り道だが、そのおかげで素敵な路地裏を見れたのだから、がっかりする必要はなかった。

目的地のそばの駅で降りると、修道院はすぐに見つかった。

この修道院には世界で一番美しい図書館があり、観光客に人気だった。

だが、僕らの目的はもちろんその世界一美しい図書館ではない。ビールなのだ。

みんなが並んでいる修道院の入り口ではなく、ビアレストランに直接僕らは向かった。

お店にはすでにたくさんの客が詰めかけていた。時刻はちょうど正午。外にあるテーブルはほとんど埋まっているではないか。だが、中に入るとそれほど混んではいない。

店員は誰も声をかけてこないので、勝手に一番いい席に着くことにした。

今度はビールを注文する番だ。だが、同じように店員は来てくれない。何度も声を掛けたが、こちらに注意を払ってはくれないのだ。

仕方なく僕は立ち上がると、カウンターまで歩いて行って、トラピストビールを二つ注文した。奥でビールを注いでいた男は快く注文を受けてくれる。

白のトラストビールは爽やかでフルーティな味わいだった。この暑い季節にぴったりなテイストだといえた。暑い道を長く歩いて来たこともあって、キンキンに冷えたビールが喉に染み渡る。ああ!

「どこへ行ってもビールだけは裏切らないわ」と妻が言った。

何度も言うがチェコのビールは安くて本当に美味しい。場所によっては水よりも安い場合もあるのだ。この国の酒税はどうなっているのだろうか。きっと日本のように何度も値上げしたら暴動が起きるのだろう。それほどビールに対する愛着があるのだろう。世界一の消費量を誇る国だけのことはある。

ここのトラピストビールがあまりにも美味しいので、もう一杯飲もうということになった。そのため何かツマミになるものがほしい。チェコ語のメニューを見ても何もわからないので、持っているガイドブックに載っている。生ハムとチーズの盛り合わせを頼むことにした。

僕はもう一度立ち上がるとカウンターに向かい、店員に写真を見せる。すると同じものはないが、似たものはあると教えてくれる。もちろんそれでいいよ、と僕は言った。

注文した料理が来たが、何が写真と違うのかは僕には分からなかった。ハムやサラミ、チーズなどがたくさん並んでいる皿は満足いくものだった。おまけにパンの盛り合わせもついてくる。これで千円ほどなのだ。

次に僕らは黒ビールを注文した。こちらは白ビールと違い、コクがある。唸るほどに味わい深いビールだった。

ビールを一気に二つ飲んだことで僕らはすっかりいい気分だった。

「そろそろ修道院の中を見学しようか」と
僕は言った。すると、「なんだか面倒くさくない?」と妻が言う。

修道院の中には世界一美しい図書館がある。このときを逃したら二度と見ることはできないだろう。だが、その見学料は千円ほどだ。このビールが四杯ほど飲める値段だ。お金を持っていないわけではないが、そう考えると、なんだかバカバカしく感じてしまう。

「それなら、もう一杯ビールを飲まないか」と僕は提案した。

もちろん妻は二つ返事で了解した。僕らはつくづくダメな旅行者だった。

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