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「ただ行ってみたくて」ポーランド編14

アウシュビッツ①
ついにアウシュビッツへ。楽しみにしてはいけない、初めての負の世界遺産。

飛行機に乗れば酔い、枕が変われば、眠れない、食べなれない物を口にすれば、お腹を壊す。そんな軟弱者だが、知らない場所には行ってみたい。冒険などではない、旅と呼ぶのもおこがましい、理由などない、ただ行ってみたいだけだ。

今回は、馴染みの薄いポーランドへ。美人に浮かれ、ビールを飲みまくり、料理に舌鼓をうち、アウシュビッツでは考え込む、ひたすら自由でテキトーな8日間の旅行記。

「ねぇ、どういうこと、これ?」

妻が、怒りで眉を釣り上げる。

昨日、バスを予約していたにも関わらず、バスの座席がほとんど埋まっていたのだ。見ると、バスに乗り込むときに、ドライバーからチケットを買っている人もいる。人数は制限していないらしい。予約などはあってないようなものだ。

僕らはバスに乗り込むと、空いている席を探した。かろうじて二つ残っていた。最後の席だ。まだ出発する十分ほど前である。乗客は、次から次に乗り込んでくる。

僕らよりも後に乗り込んできた人たちは、通路に立つことになる。彼らは一時間半ほど立ったままアウシュビッツに向かわなければならない。

それにしても人が多い。バスの中は乗客の熱で蒸していた。

定刻にバスは動きだした。僕のとなりはポーランド人らしい、ふくよかな中年女性だった。大きな荷物、それも買い物袋のような物を抱えている。一人旅だろうか。それとも席がなくて、家族とは別々に座っているのだろうか。

それにしても暑い。バスの中は冷房がかかっていないのか、異常に暑いのだ。僕は着ているセーターを脱いで、Tシャツ一枚になった。

ふぅ~と深呼吸する。背中が汗でびっしょりと濡れていた。

大丈夫だろうか、このバス。気分が悪い。でも、アウシュビッツに護送された人たちは、こんなもんじゃなかったんだろう。一つの貨車の中に百人ほど詰め込まれていたのだ。

これから一時間半ほど、このバスに乗っていなければならない。不安が募る。後ろの席に座っている妻を見ると、同じように暑そうだ。上着を脱いでいた。

十分ほど走ると、突然、バスが止まった。すると若者が一人乗り込んできた。座席を探しているが、すでに埋まっている。ため息をつくと通路に立ち、僕の座っているシートに体を預けた。

しかし、どうしてこんな中途半端なところでバスが止まるのか疑問だった。さっさとアウシュビッツに向かってほしい。

しばらく走ると高速道路に出た。通路に立っている乗客もいるのにお構いなしだ。日本じゃ考えられないことだが、立っている人は特に騒ぎもしない。

バスはぐんぐんスピードを増す。普通ならシートベルト着用が必須なのに、横には立って乗っている人たちがいる。事故はないのだろうか、事故があったとしても自己責任なのだろうか。

一時間ほど高速道路を走ると、下道に降りた。するとまたもやバスが止まる。通路に立っている人がバスを降りはじめた。

もう着いたのか、意外にちかいじゃないか、と思い窓の外を見る。だが、そこはまだアウシュビッツではないようだ。

妻が後ろの席から僕の肩を叩く。

「このバスって、アウシュビッツへ直接行くんじゃないのね」

確かにそうだ。五分ほど走ると、また止まり、僕の横に座っていた中年の女性が降りた。どうやらクラクフの街まで買い物に行っていたようだ。どうりで荷物が多いはずだ。

「どうして観光客用に専門のバスを出さないのよ、アウシュビッツって世界遺産でしょ、世界のみんなに来てもらいたいんでしょ、なんなのよ、ポーランド」

妻は、それからもちょくちょく止まるバスに苛立つっているようだ。

どうやら、このバスは観光客の専用のバスではなく、オシフィエンチムに住む人たちの生活用のバスらしい。

降りる人もいれば、逆に乗り込んでくる人もいる。

今、隣に座っているのは、ポーランドの女子高生だ。通路を挟んで座る友達とピーチクパーチク大声でしゃべっている。いったい何の話をしているのだろう。まぁ僕のことではないのは確かだ。こちらにはまったく興味なしで話に夢中だ。そのテンションの高さは、これからアウシュビッツに行く僕らとは対照的だった。

何度もバス停に止まり、そのたびに降りたり、乗ったりしながら、バスはのんびり進む。たぶんノンストップなら一時間もかからないだろう。

旅行会社に頼めば、専用のバスで送迎してくれる。だが、このバスに乗れば価格は十分の一なのだ。文句を言ってはいけない。

乗客が七割ほどに減った後、バスは最終目的地に到着した。最初は暑くて死にそうだったが、後半はゆったりとして乗り心地も悪くなかった。

「よーし、行こう」

気合いを入れ直してバスを降りた。そのときである。急に大粒の雨が降ってきた。

なんだ。なんだ。さっきまで空は晴れ渡っていたというのに、急にアウシュビッツに到着した途端に、空が真っ暗になって天気が悪化したのだ。

僕らはガイドさんと待ち合わせしている入場口まで走った。

次の瞬間、空に雷鳴が轟いた。

おい、おい、どうかしてる。僕は晴れ男のはずなのに。

軒下で雨宿りすると、空気が冷たくなっているのに気がついた。僕はセーターを着直すと、さらに鞄からフリースを取り出した。この旅行で大活躍だ。

空を見上げた。重くかさなった雲がおおっている。雨はその強さを増していた。これは当分やみそうもない。

最悪の観光になりそうな予感だった。だが、一方でそれこそがアウシュビッツにふさわしいとも思えた。そうだ、そうだ、快適で晴れ渡ったアウシュビッツになんか、用はないのだ。少しでも当時のことを思うなら、もっと悪天候でもいいはずだ。なんだか、もうやけ気味だった。

時刻は午後二時過ぎ。待ち合わせ時間は二時半なので、まだ余裕がある。

僕は鞄を預けようかどうか悩んでいた。事前の連絡では、A 4よりも小さい鞄しか博物館内に持ち込めないとあったからだ。

妻の鞄は規定以内だが、僕の鞄はそれよりも少し大きい。なんとか荷物を少なくして、A4サイズに見えないかと、姑息な考えを持っていた。

どうかなぁ、と手で何度も鞄を潰してみせる。
「大丈夫よ。ポーランド人は適当だから、そんなに厳しく見ないでしょう」

妻は、そう言うが、僕は怒られるんじゃないかと気が気じゃない。

「本当に大丈夫かなぁ?」

「そんなに気になるなら、預けてくれば」

「でもなぁ、預ける所、混んでるしなぁ」

いつまで経っても、煮えきらない僕に、一生悩んでいろ、という目で妻が見る。

「やっぱり預けてくる」

鞄から折りたたみ傘だけを取り出すと、荷物を預ける小屋のような場所に向かった。どうやらお金を取られるらしい。二ズロチ渡して鞄を預けた。

身軽にはなったが、一向に雨はやまない。集合場所の軒下には、日本人らしき人たちが集まって来ている。同じ日本人ガイドを頼んでいる人たちに違いない。その数は二十人ばかり。みんな個人で旅をしている人たちだ。

見学時間は三時間ほどだ。見学前にトイレに向かった。ここでも二ズロチ取られる。六十円ほどだが、なんだか複雑な気持ちになる。

「みなさん、こちらにお集まりください」

約束の午後二時半になった。ガイドのNさんが、みんなを集める。

時間は正確だ。僕は自分の名前が呼ばれるのを待っていた。

だが、Nさんは特に点呼をとるわけでもなく、集まった人たちを入り口まで誘導していく。なんだか拍子抜けする感じだ。ここに集まっている人たちは、僕らも含め、みんながNさんとメールでやり取りして予約をとっているはずだ。だが、もし偶然にこの時間にいたら、予約なんかなくても参加できる感じだ。支払うお金についても、ここでは何も言わない。

持ち物検査の列に並ぶ。荷物が大きくて預けるように言われている人たちがいた。よかった。やっぱり預けといて、とホッとする。

ほら、やっぱり預けてよかっただろう、と得意顔で妻を見るが、妻は僕を見ていない。さっさと荷物検査を通過していた。

飛行機に乗るときのような入念な持ち物検査が行われていた。何か起こってからでは遅いからだろう。

次は、各自ヘッドホンを借りる。するとすぐに、マイクを付けているガイドのNさんの声が聞こえる。

「ええ、これからアウシュビッツ・ミュージアムをご案内します。第一収容所が一時間半ほど、その後移動して、第二収容所ビルケナウを見学します」

ついにやってきたのだ。とはいえ、子供の頃からずっと来たかったような場所ではない。親や親戚、一族までさかのぼっても、何の関係もない場所だ。ほんの軽い気持ちと好奇心を満たすため、やって来てしまったと言っていい。

自分がアウシュビッツに来るとは思わなかった。そう答えるしかなかった。

ここにいる見学者たちも同じなのかもしれない。若者もいる。カップルもいる。年老いた夫婦もいる。女の子同士で、または一人でやってきている人もいる。そのどの顔も神妙で、戸惑っている顔つきだ。

動機はなんであれ、ついに、ここに来てしまったのだ。用など何もないのに、だが、何かに導かれるように来てしまったのだ。

目の前にはアウシュビッツの収容所があった。

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