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「ただ行ってみたくて」ポーランド編13

朝から気分良く散歩ができる。今日もなんだか良いことが起こりそうな予感。そして、それは嘘ではなかった。

ポーランド旅行記13

朝、まだ街が起き出していない時間、窓を開けると、爽やかな風が入ってくる。

もう一度ベッドの上に転がる。窓の外には晴れやかな空が広がっているのが見える。実に穏やかな一日の始まりだ。

となりで妻も目を覚ました。

今日は午後からアウシュビッツへ行く日だった。バスに乗るのが十二時半なので、それまでゆっくりできる。

「カフェにでも行ってコーヒーを飲もうか?」
僕は言った。

アパートメントホテルには朝食が付いていないので、自分で作るか、外に食べに行くしかないのだ。

幸いホテルを一歩出れば、カフェは無数にある。だが、せっかくなので散歩を楽しみながら、旧市街のカフェに行くことを考えていた。

午前八時。まだ起き出したばかりの街の中を歩いた。目の前を、通勤客でいっぱいにした路面電車が、走って行く。

今日は何曜日だろう。旅行に出ると曜日感覚がなくなってしまう。クラクフに来て二日目だから、確か、火曜日のはずだ。

もう道順はわかっている。緑の公園を抜け、旧市街へと入って行く。中央広場とは別な小さな広場の前に、お目当てのカフェはあった。クロワッサンが美味しいと評判の店だ。

扉を開けて中に入ると、ヨーロッパからの旅行者らしき若い女の子たちが、コーヒーを飲んでいた。

僕らが隅のテーブルに着くと、若いウェイトレスがメニューを持ってやってくる。とてもチャーミングで可愛い女の子だ。

僕らは目玉焼きとクロワッサンにパンのセットを頼んだ。

ウェイトレスの彼女は英語が得意ではないのか、たどたどしい。だけど、そのはにかんだ笑顔がまた素敵だ。

全体の雰囲気がふんわりしていて、見ていると蕩けそうになる。

もう完璧にノックアウト。もう何でも大丈夫。どんなに不味いパンでもコーヒーでも許しちゃう気分になる。

しかし、出されたコーヒーもパンも美味しかった。特に瓶に入っているイチゴジャムが絶妙。明日も彼女に会うためにやって来ようと、勝手に心に誓った。

彼女は十代なのか、せいぜい二十歳といったところだろう。学生のアルバイトなのだろうか。もし僕が若い頃に、ポーランドに留学していたら、あんな可愛い子と付き合うことができたのだろうか。まるで森鴎外の小説『舞姫』みたいだ。夢と妄想は限りなく広がる。

ああ、もう見ているのが切なくなるほどに、可愛い。もうこれ以上見ない方がいいが、どうしても見てしまう。

「あなたが若かったとしても、あんな可愛い子とは付き合えないから」

妻の一言。まあ、その通りだった。ああ、あんな素敵なのに、決して僕のものにはならない。名曲『イパネマの娘』は、こうやって年甲斐もない助平な中年男からできたんですね。納得です。

「馬鹿なことばかり妄想してないで、早く食べなさいよ」

妻にそう言われて、コーヒーを飲み干した。

「ご馳走様です」

胸が苦しくなるので、明日は別の店で朝ごはんを食べようと思った。さようなら、美しい彼女。

店を出ても、まだ十時前だった。せっかくなので、旧市街のヴァヴェル城まで散歩することにした。

地図を見ると、城の向こうは川になっていて絶好の散歩コースだ。

中央広場も朝早いために観光客もまばらで、カフェが何軒か開いているだけだ。

「あっ、ここの店、いいじゃない」

妻は、一軒のお土産屋を見つけた。クラクフのマグネットを買うつもりらしい。店員は若い男の子で、すぐに僕らの方へやって来て言った。

「ニイハオ!」

どうやら中国人と間違えているようだ。僕はすぐに、自分は日本人だ、と訂正した。すると店員の目の輝きが変わった。

「オー!ジャパニーズ!ユアーフットボールチームイズグレイト!」

日本代表のことを言っているらしい。なんだか誇らしくて、ありがとう、と言う。そしてポーランドは残念だったね、我々も応援してたんだよ、とポーランド代表のユニフォームを着た写真を見せる。

すると店員はさらに上機嫌な笑顔を見せた。そして、そのユニフォームは偽物だ。ここに本物があるから買え、とナイキのレプリカを手にとって売りつけようとする。

その商魂の逞しさに笑ってしまう。ユニフォームは買わないが、妻がマグネットを三つほど買った。

それにしてもフットボールは、世界を一つにする。今回W杯開催中にポーランドに来て、そう思った。いろんな国の人たちが、日本人だと分かると、褒めてくれる。

日本代表の方々、試合前に散々けなしてごめんなさい。心より反省しております。

世界の人たちは、日本人に会ったこともないばかりか、日本人についてほとんど何も知らない。唯一フットボールを見て、その存在を知るのだろう。

日本代表とは、よく言ったものである。それはサッカーだけのことではない。まさに彼らの戦い方が日本人の象徴になっていた。

朝から気分良く散歩ができる。今日もなんだか良いことが起こりそうな予感。そして、それは嘘ではなかった。

「あれ!あの人たち?」

最初に気がついたのは、妻だった。まだ朝も早いために誰も歩いていない旧市街を、どこかで見た集団が歩いていた。人数が多いためにその存在は目立つ。

「おはようござます!」

僕は添乗員の男性に声をかけた。すると一斉にみんな、こっちを振り向く。

「ああ!あなたたち、成田空港で!」

年配の男性が僕らに向かって声をあげた。なんて偶然なんだろうか。ワルシャワショパン空港で別れ、彼らはチェコのプラハから、ここクラクフにやって来たのだ。まさか、ここで再び会えるとは思わなかった。

「偶然ですね!」

僕は添乗員の男性と握手をした。

「どうも、ポーランド楽しんでますか?」

添乗員の男性は言った。

「ワルシャワではずっと寒かったんですが、いいですねクラクフ。それに今日は昼からアウシュビッツに行く予定です」

「私たちは、昨日アウシュビッツに行きました。よかったですよ」

僕らは偶然の再会を喜んだ。なんだか古い友人に偶然出会ったような喜びがあった。

一団は、今日までクラクフを観光し、明日にはワルシャワへ移動するらしい。僕らはまったく彼らの日程を知らなかった。本当に偶然の出会いだった。

どこかカフェでビールでも一杯やりたいところだが、添乗員の仕事もあるので、それは叶わなかった。

次への移動もあるので、このような立ち話もままならない。写真だけ一緒に撮って僕らは別れた。

別れてから名刺をもらうのを忘れたことに気がついた。せっかくだから、ぜひ日本へ帰ってからも会いたいと思ったのだが、それもかなわない。

もし縁があれば、三度目の出会いがあるかもしれない。それを楽しみにするのも悪くないと思うしかなかった。

僕らは城を横目に川までやってきた。土手は芝生になっていて休むことができる。

空は晴れ渡っていた。朝の風が気持ちいい。
クラクフに来てから一気にに運気は上がっているようだ。体調も良いし、やっと時差ボケも治っていた。突然、眠気がやってきて、今、日本が何時だかを考えることがなくなっていた。

僕はゆっくりと流れて行く川をぼんやりと見つめていた。

近くには、結婚記念の写真を撮っているウェディング姿の若いカップルがいた。

二人とも幸せいっぱいで、笑顔がはじけている。僕は隣にいる妻を見た。

「なに?」と妻。
「別に」と僕。

時計を見ると、十時半になろうとしていた。そろそろホテルへ帰って支度しなければいけない時間だ。

「そろそろ行こうか」
「そうね」
僕は妻の手をとった。

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