『旅はうまくいかない』⑨
チェコ編⑨「旅を上手になる必要はない。いつまでも初心者の方が、旅は楽しい」
午後三時過ぎに僕らはホテルに戻ってきた。部屋でしばらく休もうと考えていたのだ。もちろんベッドメイクは午後五時まで終了しないことはわかっている。ならば、ベッドメイクが来るまでの間、部屋でゆっくりしていればいいだけのことだ。
いつ来るのか分からないので、落ち着かないことは落ち着かないのだが、ここはチェコだ、そんなことを気にすることはない。
きっと日本のホテルなら、気をきかせて午前中までにベッドメイクしてくれるだろうが、このホテルではそんな気をきかせてくれることはない。
他の宿泊客はどうなのだろうか。僕らのように昼間、ホテルへ戻ってくることはないのかもしれない。確かにこの街は見所が満載の観光地だ。夜になるまでずっと観光していられる。観光地に一切興味を持たない僕らの方が変わっているのかもしれない。
だが僕らにとってプラハの街が魅力的ではないかと言うと、そうではない。ここほど街歩きに適した所はないように思える。街自体がコンパクトにまとまっているし、歩道は歩きやすい。トラムは街中に張り巡らされているので、歩き疲れたら乗り込めばいいのだ。
今日もビールを飲んだあと、かなりゆっくりと散歩することができた。特に修道院からなだらかに下る道は最高だった。そこにはワイン畑が広がっていたのだ。どこまでも続く緑と晴れ渡った空が、僕らの気持ちを高揚させないわけがなかった。
気温は三十度をこえていた。ヨーロッパの夏をはじめて経験する。聞いていたとおり、日が当たる場所は暑いが、木陰にくるとひんやりと涼しい。湿気がない夏を今まで経験したことがなかったので、それだけで嬉しくなってしまった。
そして人々は短い夏を楽しもうと開放的になっていた。特に女性たちの格好には驚かされる。肌の露出がすごいのだ。それは目のやり場に困るほどだった。彼女たちは日焼けすることを厭わないのだろう。時々みかけるアジア人の女性とは違っていた。
「欧米の人たちにとって日焼けはステータスなのよ。お金持ちだけがバカンスを楽しめるから、日焼けはその証拠ってことなんだわ」と妻が教えてくれる。
「でも、あんな風に焼いて大丈夫かな、みんな肌が真っ赤じゃないか」
六月の末ということもあって、まだバカンスには早い。一度も焼かれていない肌は真っ白だ。その肌に強烈な光が当たっているのだから、赤くならないわけがない。だがそんなことも気にしていないようだ。ただしサングラスは必須のようで、みんなが目を保護するためにかけていた。
「基本的に欧米系の人たちの体は寒さに強くできているからね」と僕が言った。
いつも思うのだが、飛行機に乗って、相当強く冷房が効いていても、Tシャツ一枚で平気な顔をしているのが彼らだ。もともと体温が高いのかもしれない。筋肉の量も違う。筋肉が多いと動かすことによって熱を発する量が違ってくるからだ。
「以前、真冬のロンドンのパブで、あの人たちの熱だけでガラスが曇ったことがあるの。声は大きいし、身振りも大きいから、暖房なんかなくても、平気なのよ」と妻が言った。
海外に来て何が楽しいのか、と言うと、この様に日本との違いを見つけることだった。どんな些細なことでも違いを探すことは面白い。
だから僕らは街歩きが好きなのかもしれない。そこで目にすることや、出会う人々から日本にないものを見つけられるのだ。ちょっとした違和感がとても面白く感じられる。
午後五時までやってくれないベッドメイクも、口で言っているほどに怒っているわけではない。そんなことでさえ、違いを楽しんでいるところがあった。
トラベルの語源は、トラブルだ、と言われるほどに、旅ではいろいろなことがある。もちろん怒ったり、悲しんだり、酷い目にあったりすることも多くある。だけど、究極を言ってしまえば、それらの感情のすべてを体感するために高いお金を払い、時間を使っている。
むしろ何もかも順調にいってしまったら、僕らはその地を旅する必要がない。
若いうちは苦労をかってでもしろ、とよく言われるが、若い間に、いろいろある旅をしておくべきだと考える。そして少しずつ旅の仕方がうまくなっていけばいいなぁ、と僕は考えていた。
いや、違うな。いつまでも旅の仕方を上手くなる必要はないのだろう。その方がずっと旅を楽しめる。初めての場所に行き、初めての体験をする。いつまでもそんな旅の初心者でいたい。
僕はベッドに横になりながら、そんなことを考えていた。
旅は実にいい、と思う。昨日も明日もなく今だけに生きられるからだ。
「私たち、本当にいろんなところに行ってるよね」と妻がパスポートを見ながら言う。
妻と知り合ってから、すでにパスポートは二つ目だ。その二つ目にもたくさんのスタンプが押されている。仕事で行ったものではない、すべてプライベートの旅行でのものだ。
もし妻と知り合わなければ、僕はこれほどまでに海外に行くことはなかったと思う。彼女が一緒に行ってくれるから、ここまで旅を楽しめているのだ。本当に感謝だ。
僕は昔からお金を使うのが苦手だ。お金持ちではないこともあるが、物を買ったりすることに、小さな罪悪感がある。だが、妻にはそんなところは微塵もない。
もちろん限度をこえる散財をするわけではない。彼女は、自分が価値あるものだけにお金を使う。それも適正価格で。だから海外でボラれるのが一番嫌いで、バリ島のタクシー運転手とはいつも喧嘩になる。
今回も空港の両替レートが悪すぎて不機嫌になったくらいだ。ケチなくせに僕はそこはあまり気にならない。支払うまでは躊躇するくせに、払ってしまうと、もうどうでもよくなるのだ。
だから、海外旅行も決まるまではずっと悩んでいるが、決まるともうどうでもよくなってしまうところがあった。
妻からすこしでもお金の使い方を学べればと思う。彼女は何も物が残らなくても、体験することにお金を使うことができる。だから旅行が大好きだ。
ふと作家で政治家である石原慎太郎が弟の裕次郎について話をしていたことを思い出した。
それは確か裕次郎が亡くなったときに、兄である慎太郎が思い出を語った場面だ。
子供の頃の裕次郎は、木の飛行機を作ることが好きで、よく作っていたそうだ。その飛行機を作るまでに一ヶ月かかる。そして苦労して作った飛行機をどうするかといえば、山の上から街に向かって飛ばすのだそうだ。一ヶ月かかった物を一瞬のために使ってしまう。そんな裕次郎の感性を、兄である慎太郎は懐かしそうに褒め称えていた。飛行機が飛ぶのを満足そうに見つめる裕次郎の顔が今でも忘れられないそうだ。
僕はこのエピソードを聞いたとき、きっとそれは妻のような人のことだろうと思った。一瞬の楽しみのために、時間もお金もおしまいないのだ。
ふと隣のベッドに横になる妻を見つめた。疲れてしまったのだろうか、それともビールのせいだろうか。すでに寝息をたてていた。
そのとき、突然がちゃりと扉が開いた。僕はびっくりして起き上がったが、扉の向こうでも驚いているのがわかった。
ベットメイクに来たのだ。ドアノブにプリーズメイクアップルームの札を下げていたので、まさか人がいるとは思わなかったのだろう。
僕らがいるのに気がついて、掃除係の女性が扉を閉めようとしたので、僕はドアノブを掴んだ。
「ちょっと待って!」と僕は言った。
そして、僕らはフロントに行っているから、掃除をよろしくお願いします、と伝えた。
眠っていた妻も起き上がっていた。貴重品と携帯だけを持って僕らは部屋を出ることにした。三十分もすれば掃除は完了していることだろう。
昨日と同じように、ホテルのロビーのソファーでゆっくりと過ごすことにした。ネット環境もいいし、コーヒーや紅茶もあるので快適だ。
「なんだか、掃除の女性を驚かせちゃったな」と僕は言った。
「大丈夫よ、これから毎日だから、そのうち慣れるわよ」
「そうだね。僕らに気をつかって朝からやってくれることもないしな」
「この国ってのんびりしているのかしら」
「そうだろうな。高級なホテルだったら違うかもしれないけど、ゆっくりしてるのかもしれないな」
「ここっていくらくらいだったの?」
「一泊七千円くらいかな、ふたりで」
「安いわね。こんな街の中心でそんなに安いの」
「そうだよ。だから文句のつけようがない」
「値段から言ったら、最高のホテルかもしれないわ」
それは言い過ぎのような気がしたが、ホテル選びは間違っていないように思えた。街の中心ではあったが、旧市街の広場からほんの少しだけ離れていることもあって、騒音に悩まされることもない。
こういうホテルは、僕らが旅を始めた頃は見つけることができなかったが、ネットの世界がそれを変えてしまった。口コミのおかげで安くてもいいホテルを探すことができるようになったのだ。
「あなたのホテル選びは完璧だわ」と妻が言った。僕はロビーのコーヒーを入れると満足しながらそれを飲んだ。
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