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『旅はうまくいかない』⑮

チェコ編⑮「予定のない一日」

ゆっくりと朝食を済ませると、さて今日は何をするか、ということになった。昨晩遅くミクロフからプラハに帰ってきた。ミクロフには一泊しただけだったが、プラハに帰ってくると、ほっとするものがあった。まだ日本に帰ってきたわけではないのに。

これが旅行内小旅行のいいところだった。拠点を置いて小旅行をすることによって、戻ってくるという感情がわくのだ。つい五日前にプラハにやって来たばかりだと言うにの、なんだか景色が懐かしく感じるほどだ。

明日の午後には飛行機に乗る予定だったから、実質は今日一日がプラハで遊べる最後の日となる。不思議な感覚だった。旅に出ると一日一日は長く感じるのだが、一週間という期間はあっという間に過ぎていく。

帰る日は決まっているが、一日単位では何の予定もないことがそう思わせるのだろうか。

「今日はどうするの?」と妻が尋ねてきた。

しかし、「どうしようかなぁ」と答えるしかない。

このままダラダラとホテルで過ごすのも悪くない。特に行きたい場所も見たい場所もないのだ。このような一日は、旅に出て一番の贅沢だと言えた。

「せっかく天気もいいようだから、ぶらぶらと散歩でもするかな」と僕は言った。

プラハの街を一望できるレトナー公園に行ってみようと考えたのだ。そこからはヴルタヴァ川にかかるカレル橋を眼下に眺めることができる。

ぜひそこでビールでも飲んでみたかった。きっと最高の気分になるに違いない。プラハの最後の日にもっとも適しているように思えた。

僕らは身支度を済ませると、歩いて目的地まで向かうことにした。レトナー公園まで三十分もあれば到着できそうだった。

いつものようにホテルを出て、川沿いの道を歩く。遠くにはこれまたいつもようにプラハ城が見える。美しい景色だ。ただもうその景色に驚くこともなくなっていた。

カレル橋を渡るといつものように人々がつめかけている。すべてが見慣れた景色になったことで、この街をほんの少しだが征服したような気分になるから、おかしい。

途中カフカ博物館の前を通る。カフカはここプラハ出身の作家だった。この街のいたるところに、彼にインスパイアーされたオブジェがあった。

この博物館の前にも向かい合わせになった男が立ち小便をしている像がある。なぜこんなものが、と思うのは当然だ。なにしろ不条理を描いた作家に影響を受けているのだから。

「ねぇカフカの本を読んだことあるの?」と妻が尋ねてきた。
もちろん読んだことはある。『変身』と短編集を読んでいた。

「あれよね、『変身』て朝起きると虫になっているって話よね」と妻がさらに訊く。
「そうだよ」
「なんで、虫になっちゃたの?」
「その理由は最後までわからないんだ」
「なによ、それ。小説ってそんなんでいいの?」

「いいのか、どうかはわからないけど、真面目に家族のために働いていた青年が、ある日突然、理由もなく虫になっちゃった、ていうのがカフカの描く不条理なんだ」

「たしかに不条理よね。それで話の結末はどうなるの?」
「虫になってから主人公は家族に迷惑をかけて、最後には家族とのいざこざから怪我をして死んじゃうんだよ。おまけに家族は彼の死を喜んでいるところもあるんだ。さぁ今から生き直そうってね」

「ひどい話ね」
「まぁそうだね。だけど不条理感はすごいだろ」
「ねぇ、あなたはカフカって好きなの?」
「好きなわけないだろ」
「よかった」と妻が言った。

何がどうよかったなのかは聞かなかったが、言わんとしていることはわかるような気がした。

「あと五分で博物館が開くけど、中に入りたい?」と妻が聞く。
「見なくてもいいよ」
「どうしてよ、見たいんじゃないの?」
「言っただろ、カフカは好きな作家じゃないって」と僕は言った。
「私たちって、本当にどこも見学しないのね」と妻が微笑む。

確かにそうかもしれない。だけど、こうして街を歩くことによって、カフカが見たであろう景色を同じように見られることの方が貴重なことのように思えた。もちろん変わってしまった所もあるだろうが。

しばらく歩くと、レトナー公園への入り口はすぐにわかった。ただ困ったことになった。永遠と坂道が続くのだ。丘の反対側に地下鉄かあったから、そこまで乗って来ればよかったと後悔していた。

だが、引き返すのもなんだか面倒なので、仕方なく坂道を登ることにした。午前中だというのに、気温は三十度をこえていた。汗が身体中から噴き出してくる。隣の妻を見ると、どうしてこんな坂を登らないといけないの、と不遜な表情をしていた。まずいことになった。

「ねぇ、この上にいったい何があるのよ?」と妻が不機嫌に言う。

きっと素晴らしい景色が待っているはずだが、この労力と見合うとは限らない。

「上に上がったら、ビールを飲もうよ、冷えたビール」と僕はごまかすように言った。

もちろんそんなことで納得してくれそうにない。これ以上話をすると喧嘩になりそうなので、お互いに黙るしかなかった。

息を切らしながら、十五分ほど坂道を登っただろうか。やっと公園にたどり着いた。広場と言うよりも、緑道公園と言った方がいいかもしれない。森の道が川に沿って広がっていた。

「素敵な場所ね、ここ」と妻が言ってくれたので、僕は一安心した。

思った通りの美しい景色だった。眼下に見えるヴルタヴァ川がゆっくりと蛇行しているのがわかる。カレル橋は小さくて人の姿までは見えない。おまけにこの場所は穴場のようで観光客の姿はなかった。いるのは地元の人たちのようだ。木陰のベンチに腰掛けて本を読んでいる人がいた。

次の問題はビールだった。どこにも売店らしきものがないのだ。だが、僕らは諦め悪く公園の緑道をさまよい歩いた。すると広場になっているような場所のそばに、売店らしきものを見つけた。

「やった!」
僕らは足早に売店に駆け込んだ。すると中は遠足に来たのであろう小学生の集団でいっぱいだった。みんなアイスクリームやジュースを買っている。僕らはその列が終わるまで、店のテーブル席に着いて一休みすることにした。

子供たちは小学三、四年生ぐらいだろうか。一クラスが二十人ほどのようだ。二十代とおぼしき若い先生がひとり引率でついている。子供たちは思い思いの物を買うと、いくつかのグループに分かれてテーブルに着いた。

まず目についたのは、一人の美しい金髪の少女と、彼女をとりまく三人の少女グループだった。とりまきの少女三人は一生懸命に金髪の少女に気に入られようと話しかけている。だが、金髪の少女は我関せずといった感じでアイスクリームを舐めていた。

「なんだか思い出すね、子供のころを」と妻が言った。
「あんな感じだったの?」と僕は尋ねた。
「私はあの子みたいに可愛くなかったし、他の子みたいに彼女に取り入ったりもしなかったわ」
「そうなんだ」

僕は言いながら、妻がどんな少女だったのかを想像した。すると今度は先生を囲んでいる真面目そうな女の子たちの集団に目がいった。彼女たちは本当におとなしく、声を荒げることもなかった。先生を中心にみんなが気を使いあっている。

「だけど、あれでもないかな」と妻が言う。

最後にいたのは、男の子たちの集団だった。彼らは一応テーブル付近にはいるものの、落ち着きなく立ち上がったり座ったりを繰り返している。一番声が大きく騒がしい。そしてこの子たちが集団の中で一番幼かった。

ストローを飛ばしたり、他の子のジュースを無理やりに飲んだりとやりたい放題だ。ふと見るとその中にひとりだけ女の子がいた。無作法をする男の子を叱りつけている。

「あんな感じだったの?」と僕は妻に訊いた。
「さぁ、どんな感じだったかなぁ」と妻はとぼけた。「あなたはどうだったの?」
「そうだな、あの女の子に叱られてる男の子かな」
「やっぱり」

大人になってもそう簡単に人は変われるものではない。それは僕だけではなく妻もそうだろう。毎日のように僕を叱りつけている妻が、あのような少女であったことも容易に想像できた。

売店がすいたので、僕はビールを二つ買いに行った。子供たちは学校へ帰るようだ。先頭の先生に従ってぞろぞろと引き上げていく。僕ら以外すっかり誰もいなくなった売店は静かになった。時計を見ると午前十一時をまわったところだった。思わずあくびが出る。それに反応したのか妻もあくびをした。

「自由だなぁ」と僕は呟いた。
「帰りたくないなぁ、日本に」と妻は言った。

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