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『旅はうまくいかない』⑥

チェコ編⑥「チェコの生肉は最高だった」

飛行機に乗れば酔い、枕が変われば、眠れない、食べなれない物を口にすれば、お腹を壊す。そんな軟弱者だが、知らない場所には行ってみたい。

今回はチェコのプラハと田舎町ミクロフへ。チェコビールを飲みまくり、混浴サウナにドギマギし、熱波のヨーロッパにヘキエキする。旅はうまくいかない方が面白い。チェコ七日間の旅。

「どうしてベッドメイクが終わってないわけ」と妻が不機嫌に言った。

時刻は午後三時。すでに部屋を出てから五時間以上経っていた。本来ならベッドメイクが完了していてもおかしくない時間だ。僕らの部屋だけ忘れられているのだろうか。

ドアを開けて他の部屋の扉を見ると、プリーズメイクアップルームの札がかかっている。

どの部屋もまだ終わっていないようだ。せっかく部屋で一眠りしてゆっくりしようと思ったのにとがっかりした。

僕はすぐにベッドメイクを頼むためにホテルのフロントにむかった。一言文句を言ってやろうと思ったのだ。だが、その途中で他の部屋をベッドメイクしているメイドさんに出会ったので、すぐにお願いできないか、と頼むことにした。

すると午後五時までに終わる予定だと言う。どうやら忘れているのではなく、順番にやっていると、その時間になってしまうようだ。どこも人手不足らしい。

仕方ないと僕らはフロント前のソファで時間を潰すことにした。人の行き来はあったが、ここは思ったより居心地がいい。ソファはゆったりしているし、冷房もきいている、それにコーヒーや紅茶は飲み放題だ。そこらのカフェに行くよりも、ここの方がリラックスできた。

街歩きに疲れたら、ここに戻ってくればいい。何度もホテルに帰ってくることを見越して、立地のいいホテルを選んだのだ。その選択には間違いはなかったようだ。

午後五時になったので部屋に戻り、シャワーを浴びて、ベッドに横になった。特にどこへ行ったわけではなかったが、ぐったりとしていた。時差ボケもまだ治っていないので、夕方になると急に眠くなる。

妻が携帯をいじっている間、僕は一時間ほど眠ることにした。

午後七時頃に目が覚めた。窓の外を見るとまだ日は高い。ヨーロッパの夏は午後九時くらいにならないと日が沈まない。一日が本当に長く感じられる。

まだ一日は終わっていない。暗くならない分、僕らも活動的になれた。

さて夕食をどこで食べるか。いろいろ有名なボスボダ(チェコの居酒屋)を回ろうと考えていたが、一軒目の失敗もあって、どうも二の足を踏んでしまう。

そこで、ネットで見つけた肉屋さんに行くことにした。その肉屋は、奥がレストランになっていて、ビールを飲みながら肉料理を食べることができる。

外に出ると日が高いこともあって、街はまだ活気にあふれていた。仕事を終えた人たちが、長い夕方を楽しんでいる。

僕らは迷うことなく、その肉屋に辿りついた。店の前でビールを飲んでいる人たちがいる。どうやら地元でも有名な店らしく、店内は混んでいた。

入り口をすぐ入ると肉が並べられたショーケースがあった。その奥がホールのようになっていて、真ん中には立ち飲み用の大きなステンレスのテーブルがあった。

そのテーブルを挟んで右側のカウンターではビールを売っている、左側は料理を注文するコーナーのようだ。

座れる席はないのだろうか。僕らはさらに奥へと進んだ。するとそこには着席できるテーブルが並んでいた。五十人ほど座れそうだ。

だが、そこも人であふれている。座れそうな席はないか。歩いて探すと、荷物だけが置かれている席を見つけた。僕は荷物の持ち主に声をかけて、座ってもいいか、と英語で尋ねた。するとチェコ人らしい大きな体の男が笑顔で、どうぞどうぞ、と言ってくれた。

よかった。だがほっとしているのも束の間のことだ。どうやって注文していいのかわからない。店員さんを呼べがいいのだが、いそがしそうで声をかけられない。

面倒くさくなった僕は立ち上がると、先程のビール専門のカウンターに言って、ピルスナービールを二杯欲しいと言った。

すると手にもっているカードを出せと、店員が言う。どうやら先ほど入り口で渡されたカードが注文票のようだ。そのカードを渡すと店員はビールのマークがついているところにチェックをいれた。

僕はビールを二つ持って妻の待つテーブルに戻った。まずはビールで乾杯だ。よく冷えていて本当に美味しい。この旅で何杯このビールにお世話になることだろうか。

さて落ち着いたところで、今度は料理を注文したい。隣をみると、大きな体の男がステーキを食べている。本当に美味しそうだ。

すると、男が僕に声をかけてきた。そしてこの店に来たからには、肉のカルパッチョを食べるべきだと教えてくれる。

この国では日本とは違い生肉が食べられるのだ。僕はそのためにこの店に来たと言ってもいい。

一番食べたかったのは、タルタルステーキというもので、生肉のミンチをパンにのせて食べる料理だったが、あいにく売り切れとのことだった。

仕方なく、隣の男が勧めてくれたカルパッチョを頼んだのだ。だが、これが本当に絶品だった。

うっすらと引き伸ばされた肉にマヨネーズとバジルソースがかかっている。フォークですくうようにして肉を口に運ぶ。

うまい!

肉の新鮮さもあるが、質もいいのだ。古くから生肉を食する文化を持つ国だけのことはある。どんなに食べてもしつこくないし、あっさりしている。だが、味わいは深い。日本でいうと、マグロの刺身のようなものだ。新鮮で脂ののりもいい。

「これ、本当においしい!」やっと妻の顔にも笑顔が戻ってくる。「ビールに最高の組み合わせだわ」

僕らが喜んでいるのがわかったらしく隣の男は上機嫌でさらに話しかけてきた。

「ここの店の肉は最高だろ。日本ではこんな美味しい肉が食べられるのか?」
「いや、日本では生肉は食べられないよ」と僕は言った。
「そうか、食べれれないのか、それは残念だな。プラハにいる間にたくさん食べてくれ」

それからプラハのタクシー事情についての話になり、
「お前たちタクシーは使うなよ。ボラれることもあるからな。できるだけウーバーを使った方がいいぞ」と教えてくれる。

僕が、空港からウーバーを使って快適だった、と言うと、それが正解だ、と男は親指を立てた。

しばらくの間、その大きな体の男と英語で話をした。僕らがチェスキークルムロフではなく、片田舎のミクロフへ行くと言うと、彼は首を傾げた。

どうやら、ミクロフという町はプラハでもあまり知られていないようだ。とんでもない田舎町だとは聞いていたが、そこまでだと思っていなかった。行く場所を間違えたかな、と少しだけ不安になった。

プラハに来た観光客のほとんどが古都であるチェスキークルムロフに行くのだ。チェコの京都と呼ばれ、綺麗なお城と城壁が残っている風光明媚な場所だ。写真を見たことがあるが、なるほどと思わせることだけはある。

ここプラハからはバスで三時間ほど行けるために小旅行にはぴったりだった。だが、僕らはそのような有名な観光地にはちょっと気後れするところがあった。観光客でごった返す町よりも、誰も行かない地元の人だけのチェコが見たかった。

それでミクロフという小さな町を選んだ。何しろその町はワインで有名だったからだ。僕らはその地で作られたモラヴィアワインをしこたま飲もうと考えていた。列車で四時間ほどかかるが、それでも行ってみたかった。

その選択が吉と出るか凶と出るか、そのときの僕は自信がなかった。なにしろ今回の旅はトラブルから始まっているのだ。とにかく心を引き締めてかからなくてはならない。

だが、この店は大当たりだった。生肉を食べ、うまいビールも飲んだので気分はすっかりよくなった。僕らは大満足で店を後にした。

外に出るとすっかり日が沈んでいた。時刻は午後十時。もう少し街を散歩しようということになった。

妻が腕を絡めてくる。二人ともほろ酔い気分だった。朝、ホテルを出ていくときも楽しいが、このように一日を終えてホテルに帰る時間も楽しいものだ。

去年のポーランドと同じように、ここチェコも治安がいい。何も気にすることなく夜にフラフラできる。これはどう考えても移民を受け入れていないからだろう。

街で見る人々はほとんどがヨーロッパの人たちだ。唯一の移民と言えるのは、コンビニのような商店で働いているベトナム人たちだった。彼らはきっとチェコがまだ社会主義だった頃にやってきたのだろう。

チェコはポーランドと比べても豊かな国とは言えない雰囲気があった。戦争で破壊されなかった街は、何もかも古かった。

だからこそ、世界中の人々が詰めかけることもあるのだが、日本と同じようにこの国も硬直しゆっくりと衰退しているのを感じた。

ただ人々の気質は優しく、旅行者にも慣れているようだった。困ったときにはすぐに助けに来てくれるし、道を横断しようとすると車がすぐに止まってくれる。

「どう、この街が好きになりそう?」と僕は妻に訊いた。
「何かがうまくいくと、何かがうまくいかないの、なかなか調子が出ない感じ」
「まるで人生みたいじゃないか」
「確かに、そうね」と妻が微笑んだ。

明日からも楽しく過ごせるといいのだが、そう願いながら、僕らはホテルに帰ることにした。

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