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『旅はうまくいかない』⑫

チェコ編⑫「チェコの田舎町ミクロフは素敵なところだった。すぐに僕らは気に入ってしまう」

その三十分は夢の時間だった。

列車は大草原の中をひたすら走っていく。僕は立ち上がって、窓の外の景色を眺めた。

目の前には一面の緑が広がっていた。これがモラヴィアの草原なのだろう。日本の観光客の中には、プラハから専用のドラバーを雇って見にくるほどの景色だ。

ただ地元の人にとっては、見慣れた平凡な景色なのだろうか。ローカル列車の客たちは携帯から頭を上げることはなかった。僕ら以外に誰もこの素晴らしい景色を見ている人はいない。

特に観光の目玉になるような場所ではないのかもしれない。その証拠に、列車の窓は汚れて曇っていた。

「この列車、冷房もないのね」と妻が言った。

「窓から顔を出してごらんよ。風が気持ちいいから」と立ち上がっている僕は言った。

緑の草原からの風が、僕らの顔にあたる。草の匂いがする。その気持ち良さったらなかった。これだけでもミクロフまで来た甲斐があったというものだ。

「うん、うん、悪くないなぁ〜」と僕はひとり呟いていた。今、キンキンに冷えた白ワインがあったら、どんなに素晴らしいことだろうか。それは町につくまでの我慢だ。

ミクロフまでは駅を二つ、三十分の乗車時間なので、あっという間に到着してしまった。ミクロフの駅は思った通り何もない。閑散としていた。

ここで十数人が列車を降りた。観光客も少しいたが、ほとんどが地元の人たちだ。

去っていく列車に向かって僕は手を振った。すると列車の運転手が手を振り返してくれる。そんなことをしていると、駅に残されたのは僕ら二人だけになっていた。

さて、これから町の中心地に向かわなければならない。方角はわかっていた。駅からなだらかな登り坂になっている向こうに、城が見えているからだ。あれがたぶんミクロフ城だろう。とにかくその城に向かってまっすぐ歩けばいい、ただそれだけだ。

歩き始めるとすぐにTシャツが汗ばんでくる。昨日から徐々に暑くなり始めていた。太陽が容赦なく僕らを照りつける。きっと今日も三十度はあるだろう。いや、額からも汗が滴り落ちているから、もしかすると三十五度近くあるかもしれない。

六月末のヨーロッパは涼しくて快適だと思っていたが、そうではないらしい。さすがに直射日光の下では肌がジリジリと焼けるような気がした。

目の前を地元の少年が自転車に乗ってやってくる。上半身は裸だ。それが自然に感じるほどに暑い。

ふと見ると張り紙があった。ライブの告知のようだ。どれも知らないアーティストだったが、一つだけ知っている名があった。キッスだ。まだ活動していたのか。アメリカのロックバンド、それも七十年代に売れたバンドがチェコにまで来ているのが嬉しくなった。

額の汗を拭う。僕らは猛烈な暑さの中、ひたすら緩やかな坂道を登っていくしかない。やっと町の旧市街に入ったようだ。レストランが軒を並べている。どこかで冷えたビールが飲みたい。もうワインの気分じゃなかった。

だが、焦ってはいけない。まずはホテルまで行くことだ。

さらに百メートルほど歩くと、旧市街の中心地に出た。観光客がちらほらいて、店の外のテーブルでビールを飲んでいる。

ここがミクロフなんだ、とほっと息をついた。なんとか到着した。東京からどれほど離れた地であることか。

インフォメーションセンターを見つけたので、中に入ることにした。無料の地図がないか、と尋ねると、すぐに出してくれた。そして僕らが泊まるホテルの場所に印をつけてくれる。どうやらすぐ近くのようだ。

本当にこじんまりとした町だった。ミクロフ城以外、特に見所もない。こんな所までわざわざ来る必要もないだろう、と思わせる町だ。

教えてもらった通り、ほんの三分ほどでホテルに辿り着いた。僕らの泊まるホテルはちょっとした歴史的な建物だった。なにしろ、画家のミュシャが若い頃に住んでいた建物なのだ。

僕らの通された部屋は、そのミュシャがいかにも住んでいたと思わせるような屋根裏部屋だった。一応、小さな窓はついていたが、風が通り抜けるとは言いがたい。

「この部屋ってエアコンはないの?」と妻が言った。

この部屋ばかりではない。ここミクロフのホテルはほとんど冷房施設がなかった。

「どうしよう、眠れるかな?」と暑がりの妻は心配した。

「昼間はこんなんだけど、きっと夜には涼しくなるよ、それに扇風機もあるから」と僕は唯一の頼みである扇風機のスイッチをいれた。

ブーンと羽根が回る。壊れてはいないようだ。よかった。この国では何があるかわからないので、チェックしておくに越したことはない。

着替えなどの荷物をカバンから出すと、さらに身軽になって、僕らは町に出ることにした。

お昼を食べていなかったので、ホテルのwi-fiをつなぎ、ネットで一軒の店を見つけていた。地元のレストランだ。

すぐにその場所はわかった。思った通り、店の中に冷房はない。だが、外に比べればほんの少しひんやりしている。

ここで待ちに待ったモラヴィアワインと言いたいところだったが、あまりの暑さで、僕らはまず冷えたビールを飲むことにした。

ビールはすぐにやってきた。五百ミリのビールがここでは二百円ほどだ。本当に安い。

「とりあえず、無事に到着しことに、乾杯!」と僕は言った。

キンキンに冷えたビールをごくごくとのみほす。声にならないほどの美味さだ。これ以上の幸せを今見つけることはできない。妻を見ると彼女も本当にいい顔をしていた。

喉が潤おうと次は食事だ。どうやら今はランチタイムの時間らしい。僕らはカツレツを注文した。

出てきたカツレツにはマッシュポテトもついていた。カツレツを切り分けて、ビールのつまみにした。油もさっぱりしていて美味い。それにマッシュポテトも味がしっかりしている。

料理を食べ終えて、ビールを飲み干すと、やっとワインが飲みたくなってきた。

「いきますかね、ワイン」と僕は言った。

すぐにモラヴィアの白ワインを注文した。この店は特にワインに気をつかっているようではなかったので、ちょっと心配ではあったが、出てきた白ワインを味わって驚いた。

香りが違った。グラスに鼻先をつっこむとフルーティーな香りが大きく広がったのだ。飲んでみるとそんなにドライではない。柔らかくまろやかな味わいだった。

「ちょっとすごいね、このワイン!」妻も驚いている。

もちろん僕と違い美食な妻は、日本でこれ以上の白ワインを飲んでいた。だが、その彼女が驚いているのだ。

きっと出てきたワインは特別な物ではないだろう。安いハウスワインに違いない。値段にして一杯二百円ほどだ。日本ならサイゼリアのワインと同じ値段なのだ。それがこんなに美味しいことが信じられなかった。そしてこの地方でしか飲めないことに、このワインの価値があった。

「わざわざ、こんな辺鄙な場所まで来た甲斐があったね」と僕は言った。

ミクロフに来ることは、ほとんど僕一人で決めてしまったので、妻が気にいってくれるかどうか、心配だったのだ。

「この町に来てから、蜂が多いのが気になっていたけど、きっと花を受粉させるためにいるのかもね」と妻が言う。

もう東京ではほとんど目にすることもない蜂を、駅からここへ来るだけで何匹も見ていた。

ビールを一杯に白ワインを二杯飲んだ。すっかりいい気分だった。時刻は午後四時。ヨーロッパでは一番暑い時間だった。この店でゆっくりしていてもいいのだが、明日の午後にはこの町を去らなくてはいけないことを考えると、そうもしていられない。

僕らはミクロフ城を見に行くことにした。入場料を払えば、中を見られるはずだ。

だが、ここで小さなトラブルがあった。僕らがちゃんと説明を聞いていなかったのか、それとも入場券売りのおばちゃんの説明が悪いのか、思ったものが見学できなかったのだ。

五百円どの入場料を支払ったというのに、見られたのは説明書きが並んでいる部屋だけだった。僕は話が違うと、入場料売りのおばちゃんに怒って抗議した。暑さがそうさせたのかもしれない。

あまり怒ることもない僕だったが、猛烈に腹が立ったのだ。

僕は知っている英語でまくしたてた。まるで子供のように。

だが、どんなに怒っても入場料は返ってこない。そして今日は終わりだと冷たく言われてしまった。

おばちゃんに向かって英語で吠えたが、まだ僕の中の怒りやもやもやは収まらない。僕は城から見下ろす町並みにむかってさらに吠えた。

「ふざけんな〜金返せ!」

後ろで妻が笑い転げていた。あまりにも彼女が笑うので、僕もつい笑ってしまった。

「なんだか、うまくいかないね、この旅は」と妻が言った。

「俺の人生みたいだ」
すると、またもや妻が大笑いし始めた。

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