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「ただ行ってみたくて」ポーランド編11

ポーランド旅行記11
「旅に出ると一日が長く感じる。まるで子供の頃に戻ったように」

なんて素敵な街なんだろう。僕は、クラクフの街を歩きながら、あらためてそう思った。

僕らが泊まっているアートメントホテルは、駅からは遠いのだが、五分ほど歩くとすぐに旧市街がある。観光客にはうってつけの場所だ。

通りを路面電車が走って行く。石畳に、古い建物、目に入るのは僕らが想像するヨーロッパの古い街並みそのものだ。

旧市街はかつてあった城壁が撤去され、現在は緑豊かな公園によって取り囲まれている。ベンチではコーヒーを飲む人や、読書している人がいた。

公園を抜けて旧市街に入ると、急に店が増える。カフェバー、ケバブ屋、お土産屋、スターバックスもマクドナルドまである。

どの店も観光客で賑わっていた。ワルシャワの旧市街との違いは、大きさもさることながら、その歴史が違った。どの建物も十五世紀からあるのだ。

カップルたちは、街角のそこかしこでキスをしていた。彼ら欧米人は、美しい景色を見るとキスをする習性があるらしい。

賑やかな通りを抜けると、急に視界が広がった。そこはクラクフ旧市街の中心である広場だ。

真ん中に行くと、思わず両手を広げて空を仰いだ。なんて解放感なのだろう。空が広い。

それもそのはずで、ここは中世から残っている広場として、ヨーロッパ随一の広さなのだ。

僕はまったく知らなかったのだが、このクラクフの旧市街は、現在、無数にある世界遺産の中でも、一番はじめに登録された十二のうちの一つらしい。

本当に知らないことが多すぎる。

ここでも若いカップルたちがキス、キス、キス。だが、それよりも僕には広場の片隅のベンチに座っている老夫婦の方が気になった。

観光で疲れたのだろうか。それも仕方がない。かなり高齢なのだ。彼らは小さな声で囁き合いながら、しっかり手を繋いでいた。美しい光景だ。

天気もいいし、広場のカフェでビールでも一杯やりたいところだ。

時刻は、午後三時半。こんな時間までお昼を食べていないので、お腹も減っていた。確かこの近くに、地元の人たちで賑わう、ポーランドの家庭料理を出す店があったはずだ。そこで食べながらビールを飲めばいい。

地図を見ると、何百メートルもない。ただし奥に入っていて場所がわかりづらい。目印は表のピザ屋だ。

僕らはそのピザ屋を見つけると、横の通路を通って建物の中に入っていった。中庭があり、奥に薄暗い店があった。

ここだ。ここだ。店は本当に地元の人気店のようで、人々で賑わっていた。

店の中が暑い。冷房などないようだ。人々と料理の熱がこもっていた。

「ビールをください」

メニュー表も見ないですぐに注文したが、店員は首を横に振る。どうやらアルコール類は置いてないらしい。料理を食べたら、すぐに席を立って次の人にゆずるのがルールのようだ。

仕方がないので、水を注文した。

さて何を食べるかだ。メニュー表はポーランド語だ。まったくわからない。

僕はガイドブックを開いて、そこに載っているサラダと豚肉の煮込みのセットを指差した。

だが、その写真に載っているメニューが何か、店員にはよくわからないようだ。困ったことになった。

「ボイルドポーク」

と僕が言うと、ごめんなさい、売り切れなの、と今度は店員がすぐに答えた。ガイドブックにも午後には売り切れることもあると書かれている。

それじゃあ、次に何がおススメなのかと聞くと、牛タンの煮込みが美味しい、と言う。僕らはそれを二つ注文した。

だが、その牛タンの煮込みが本当に美味しかった。トロトロに煮込まれていて、口の中でホロホロと溶けていくのだ。絶妙な塩加減。こんな美味しい牛タンの煮込みを食べたことがない。

そして、皿に一緒に供されているマッシュポテトも本当に美味しいのだ。ジャガイモが甘い。まずいジャガイモしか知らないイギリス人が食べたら、こんなのジャガイモじゃない、と怒りだすレベルだろう。今までに食べたことがないほどの美味しさだ。

人気店のはずである。これで十六ズロチ、約四百八十円なのだ。昼食でも夕食でもない半端な時間にも関わらず、客はひっきりなしにやってくる。

牛タンの量もさることながら、拳ぐらいの大きさのマッシュポテトを二つも食べたために、もうお腹はいっぱいだ。大満足だと言っていい。

店を出ると、僕らは旧市街の街をぶらぶらと見てまわった。天気もいい、気温も寒くも暑くない、ちょうどいい感じだ。

そのとき、ふと今日やっておかなければならないことを思い出した。

そうだ。明日、アウシュビッツへ行くためのバスの切符を買わないといけない。

僕らはすぐにクラクフの駅に向かった。確か列車の駅の向こう側にバスターミナルがあったはずだ。

バスターミナルには、時刻表が貼ってあった。

「アウシュビッツ行きはどれなの、どこにもないけど」と妻が言う。

何やら暗号表のような赤や白や緑の数字が並んでいるだけだ。

「ああ、あれだよ、オシフィエンチム行きは」

僕が言うと、妻は何それ、と言った顔をした。

「オシフィエンチム?」

「アウシュビッツというのは、ドイツ人たちが呼んでいた地名で、ポーランドではオシフィエンチムって言うんだ」

偉そうに言っているが、僕もつい最近ガイドブックで知ったのだ。

バスの時刻表はよくわからなかったが、明日の午後二時までに到着するバスを頼めばいいはずだ。

僕は窓口に行って、そう伝えた。すると十二時半に、ここから出発するバスがあるらしい。どうやらアウシュビッツまでは一時間半ほどで、運賃は片道約五百円だ。

行き帰りで千円ほどになる。旅行会社に頼めばガイド送迎付きで一万もすることを考えると、本当に安い。

なんとかバスの切符も買えて満足だった。

どこか駅の近くの店でビールでも、と考えたが、それよりもビールを飲むならとっておきの場所があった。

僕らは、コンビニでビールとつまみを買い込むとすぐにホテルに戻った。

部屋に入るとすぐに窓を開けて、外からの爽やかな風を招き入れた。

何よりもここが、ビールを飲むのに最高の場所だ。

窓が開けられるのが、こんなにスペシャルなことだとは思わなかった。これは高級ホテルでも味わえない特別なことだ。

どこからか、子供たちの声が聞こえる。遠くでは教会の鐘の音が鳴る。時折風が吹いて、レースのカーテンを持ち上げる。すると緑の街路樹が目に入る。

僕ら夫婦は微笑み合いながら、ビールをゆっくりと飲んだ。初夏のポーランドは午後五時過ぎだというのに、まだ日は高いままだ。いつまでも日が暮れないのではないかと錯覚に陥る。

これほどの贅沢があるだろうか。一杯のビールが僕ら夫婦に幸せをもたらしてくれる。

「ああ、いいなぁ、クラクフ」

僕はソファに寝転びながら言った。

明日はついにアウシュビッツに行くことになる。旅の目的とまでは言わないまでも、僕らにとって唯一の予定だった。

いったいどんな景色を見ることになるのだろうか、いったいどんな気持ちになるのだろうか。

負の世界遺産。楽しみにしてはいけない初めての場所だ。

僕は、ビールをぐいっと飲み干した。

それにしても一日が長く感じる。まるで子供の頃のようだ。あの頃は毎日が刺激にあふれていた。だから一日が長く感じたのだろう。

旅行も同じなのかもしれない。バスの切符を買うだけで、もうそれが刺激になる。この国での僕らの能力は小学校の低学年と同じだ。

日本から遥かに離れたポーランドにいる。
そのことが不思議でならなかった。

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