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『眠れない夜を』(短編小説)

(あらすじ)眠れない夜は、きまって昔つきあっていた彼女のことを思い出す。それは私にとって、大切だが、決して思い出したくない苦い記憶だった。どんな人生にも意味はある。私はすこしずつ大人になろうとしていた。

眠れない夜は、きまって昔つきあっていた彼女のことを思い出す。

 なぜなんだろう。私はひとりベッドで寝返りを打ちながら考えていた。

 私は不眠症ではない。だから眠れない夜といっても、一年に何度もあることではない。本当に年に一度か二度、たまにあるかないかのことだ。だが、眠れない夜は決まって彼女のことを思い出す。

 私は売れない小説家で、金はなかったが時間だけはたんまり持っていた。明日は仕事の打ち合わせも取材も入っていない、唯一ある締め切りもずっと先のことだ。そんな日はよくない。案の序、いつものように深夜一時にベッドへ入ったが、なかなか寝付くことができなかった。夜に深刻なことを考えてはいけないと、私に注意したのは、たしか父だったろうか。その通りだった。

 私は、今月の家賃の支払いや、たまっている請求書のことが頭にちらついた。私は何も持っていなかった。小さなアパートの一室で孤独を感じていた。なにもかもうまくいっていなかった。仕事ばかりではなく、プライベートもうまくいっていなかったのだ。

 このままではいけないと思い、私は部屋の電気をつけてパソコンを開いた。書きかけの小説に向かおうとしたが、まったくやる気が出てこない。今まで書いた部分を読み直してみたが、ゴミの山をうずたかく積んでいるようにしか思えなかった。徒労だった。

 こんなことをいつまでするつもりなのだろうか。自分でも呆れて途方に暮れる。
 キッチンへ行って、棚からいつ買ったかわからないジャックダニエルを取り出す。ロックにして飲もうと思ったが、あいにく氷がない。仕方なくコップに注ぎ、一気に喉へ放り込んだ。
 熱い液体が、体の中心部分を流れていくのがわかった。これで少しは落ち着くといいのだが。

 午前二時十七分だった。携帯を取り出したが、こんな時間にかける相手もいなかった。ため息をつくと、もう一度電気を消して、ベッドに横になった。目を閉じて、ゆっくりと呼吸した。

 やはり以前つき合っていた彼女の顔が浮かぶ。寝返りを打ったが、彼女の顔は私の脳裏から消えなかった。私はあきらめて彼女のことを思い出すことにした。

 彼女とは大学のクラスが一緒だった。地方からやってきて一人暮らしをしている私に何かと世話をやいてくれたのが彼女だった。

 彼女は大学の付属校出身で、高校時代はテニスに打ち込み全国大会にまで出たことがある。だが、右膝の靱帯を痛め、大学ではテニスをすることはなかった。

 女子校で、三年間をテニスに打ち込んできたため、誰かとつきあったことはなかった。私が初めての男だったのだ。

 暇を持て余していた私たちは、とりつかれたように体を重ね合わせた。些細なことで喧嘩もよくした。喧嘩をすると私は電話に出なかった。すると彼女が部屋にやってきて仲直りのセックスをすることになる。その頃の私たちにとっての喧嘩は、まんねりセックスへのカンフル剤だった。

 大学時代の四年間は、なんとなく過ぎていった。関係がおかしくなったのは卒業してからだ。

 私は、小説を書くために会社勤めをしなかった。一方、彼女は銀行につとめることになった。

 会社勤めをしていない私は、気が向いたときだけ建設現場のアルバイトに出る。極力働かないで、小説を書く時間を作ろうとしていたのだ。自由だが孤独で平凡な毎日だった。だが、そのことに私は満足していた。何しろそんな生活を私自身が望んでいたからだ。

 一方、彼女は、一流企業に勤めながらも、自分の仕事どころか、生活や自分自身にも満足していないようだった。

 会えば、会社の愚痴が始まり、それに対して私が意見を言うときまって、ちゃんと働いていないあなたに何がわかるの、と言って喧嘩になった。

 大学時代と違うのは、喧嘩になってもセックスで仲直りとはいかなくなっていたことだ。次の日にも彼女には仕事があり、私の部屋で戯れているわけにはいかなかったのだ。

それでも私たちの関係は続いていった。

 彼女が眠れないと言いだしたのは、就職して半年が経ったときだった。努力家で負けることをよしとしない彼女は、会社でもよく働いていた。だが、心はもうとっくに限界に来ていたのだ。

「そんなに苦しければ、会社をやめたらどうか」と私は言った。

 もちろん彼女は、嫌だと言った。このまま負けるのも嫌だが、それ以上に世間の目を気にしていた。いや、正確に言うと、母親の目を気にしていたのだ。

 母親に誉められたい。それが彼女の心の大半を占めていた。母子家庭で育ち、子供の頃から運動も勉強もでき、自慢の娘だったのだ。難関の進学校を卒業し、そのまま大学に入ったまではよかった。彼女はそれまでの生き方になんの疑問も持っていなかった。だが、母が喜んだ銀行での社会人生活は彼女を壊していった。

 思うように仕事の結果がでないことは、彼女にとって初めての挫折だったのかもしれない。
 彼女の心は壊れていった。眠れない日々が続いた。

「会社をやめたいけど、やめられない」
 彼女は言った。母親の期待を裏切りたくなかったのだ。それだけじゃない。自分への期待も裏切りたくなかったのだろう。駄目な自分を受け入れることができなかったのだ。

 私は母親とゆっくりと話すことを提案した。だが、母親は彼女の意見など受け入れる人ではなかった。

 私は見るに見かねて、彼女の母親とふたりで話す機会を持った。その頃の私はまだ、どんな人でも誠意を持って話せば分かってもらえると思っていたのだ。私は彼女を助けてほしいと訴えた。だが、彼女の母親の返答は私の期待を裏切るものだった。

「あの子は、あなたとつき合ってからおかしくなったのよ。あの子のことを思うなら、あなたは身を引きなさい」

 私は、彼女になんと伝えたらいいのか、わからなかった。確かに私の価値観が彼女に影響を及ぼしていることはいなめなかった。私は自由を求め、自分だけの好き勝手な生き方を選んでいた。それを彼女は羨ましいと言いながらも、否定していた。

「みんなが、あなたみたいに生きられないの」
 私だっていつも迷っていた。書けば書くほど、自分に小説を書く才能などないのだと突きつけられているようだったからだ。

「死にたい」と彼女が口にするようになった。限界が近づいていることはわかっていた。私は、彼女を母親から離すために、自分のアパートに連れてきた。

「今日から、ここが君の家だ。もう母親の顔色を伺う必要はないんだ」

 もちろん、彼女の母は怒って、私のアパートに怒鳴り込んできた。

「娘を返しなさい」
 まるで何かの新興宗教に娘を洗脳されたような言い方だった。

 私は極力怒りを押さえ、彼女の母親に頼んだ。
「ずっとじゃないんです。ここにほんの少しだけ、いさせてあげてください」と。

 彼女の母親は納得しないようだったが、「あなたに何ができるの?」と捨てぜりふを吐いて去っていった。

 私の心は奮い立った。

 だが、私はまだ若く世間知らずで愚かだった。母親から彼女を離せば、すべてがうまく回っていくと思っていたのだ。

 彼女が二十二年間つないでいた母との鎖は、彼女自身が手放さない限り、続くものだったのだ。

 彼女は、なんとか朝起きて銀行へ行ったが、そのうちまったく起きられない日が出てきた。そしてしばらく休みをもらう形になった。

 もう私は、「銀行を辞めれば」とは言えなかった。彼女は、自分が社会から脱落することを何よりも恐れていたからだ。

 しばらく休んでは、会社に何日か通い、そしてまた通えなくなる日々が続いた。

「もういいじゃないか」
 と私はある晩、彼女に言った。これ以上無理を重ねても何も進展しないように感じたし、のたうち回る彼女をもう見ていられなかった。

 彼女は、その夜、大量の睡眠薬を飲んだ。夜中に起きた私は、台所で医者から処方された薬をすべて飲んでしまった彼女に気がついた。驚いた私は、彼女をトイレに連れて行き、指を突っ込んで吐かせた。

 彼女は、三度吐いた。吐くたびに「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんさない」と言った。

 私は病院に連絡し、すぐに救急車を呼ぶべきかと訊ねた。医者は大して強い薬でもなく、全部吐いてしまったのなら、緊急を要する問題でもない、明日の朝にでも病院へ連れてくるようにと教えてくれた。

 次の日、彼女は病院へ入院することになった。彼女の病気はひどくなってはいたが、私は四六時中彼女と一緒にいることから解放されて、少しだけほっとしていた。

 私は、書くことをやめて、毎日彼女の元へと通った。彼女は病院で薬漬けになり、ほとんど一日中ぼ~としているようになった。

 改めての問題は、彼女の入院費だった。アルバイトで暮らしている私には、ほとんど蓄えがなかった。銀行に一年勤めていた彼女はほんの少し蓄えがあったが、この生活が長く続けばいつか底をついてしまう。だからと言って、彼女の母親に相談することは、私のプライドが許さなかった。

 私は、彼女の父親へ連絡することにした。彼女の両親はずっと以前に離婚しており、一年に数回だけ会う関係だった。

 彼女の父親は、離婚後も再婚しておらず、一人で暮らしていた。お金なら心配することはない、いつでも家に二人で遊びに来るようにと誘ってくれた。

 私は、一人で彼女を看病することに疲れており、彼女の父親の言葉が本当に嬉しかった。

 入院生活の中で、彼女は怒りや悲しみを突然爆発させることがあり、私はどう対処したらいいのか、わからなくなっていた。私の前に以前の彼女はもういなかった。

 私はアルバイトへ行かないことでどんどん手持ちの金がなくなり、かと言って小説を書いて食べていけるわけでもない生活に焦りを感じていた。

 ある日、気分転換のために、一時退院して彼女の父親の家へ一泊まることになった。父親は気前よく、私たちのために寿司をとってくれた。ビールを飲み、おいしい寿司を食べて、彼女は以前のように落ち着ついた表情をしていた。

 私も、久しぶりに病院から抜け出せたことで心がゆるんでいた。

 その席で彼女の父親が私に言った。
「結婚するなら、ちゃんとした勤め先が必要だな」
 確かにそうだった。小説を書いて生きていけるなんて、そのときの私には到底無理なことだった。父親とするならば、彼女を守れる土台がほしかったのだ。私はそれを十分に理解することができた。

「私も寿退社なら、すごくいいと思うの」
 と彼女は言った。休職中だった彼女は、やめるための正式な理由がほしかったのだ。それは彼女自身を騙すために必要な薬であることは私も十分に承知していた。

 だが、私は、その言葉を聞いたとき、何か飲み込むことが困難な物が入ってくるのを感じた。私の人生が私の手の中から転がっていくような錯覚を覚えたのだ。

「いや、でもそれはまだ・・・・・・」
 と私は言った。その瞬間、父親の顔色が変わった。

「結婚するつもりはない、と言うのかね」
 私はしばらく黙った。彼女が私の横顔をじっと見ているのはわかっていた。
「もうやめて」
 と彼女は、私がこれ以上話すのを遮ろうとした。だが、彼女の父親は納得しないようだった。

「娘を愛していると言えないのか」
 本当のことを話したら、すべてが終わることは若かった私にも重々承知だった。そしてそれを言ってしまえば、すべての重荷から解放されるようにも感じていた。

 言ってはいけない。だが、言えば楽になる。何度も気持ちが行ったり来たりしていた。

「どうなんだね」
 彼女の父親が私に詰め寄ると、ついに私は思いのたけを吐き出してしまった。あの日、彼女が飲み過ぎた睡眠薬を吐き出すように。
「今はもう愛しているかどうかもわかりません」

 私がそう言うと、彼女の父親の顔つきが変わった。
「じゃあ、どうしてつき合っているんだ?」
「可哀想だからです」
「可哀想だって、つまり同情からか」
「そうかもしれません」
 父親の怒りは頂点に達していた。
「それなら、すぐに出て行ってくれ!」
 だが、私は立ち上がることができなかった。
「嫌よ、やめて!」

 彼女が泣きながら私に抱きついてきたからだ。それを彼女の父親ははがしながら言った。
「こいつは、お前のことを本気で愛してなんかいないんだ」
 そう言われたが、私に怒りはなかった。その通りだったからだ。今はここから逃げ出したいばかりだった。

「いいから帰ってくれ」と彼女の父親は言った。

 私は、泣いて叫ぶ彼女の姿を見るのにあまりにも疲れていた。逃げていい、と彼女の父親は言っているのだ。今しか逃げるときはないのだと告げていた。

 私は立ち上がると、彼女の父親の家を飛び出した。逃げ出した。

 もう彼女の元には戻れない。
 私は卑怯で弱虫な男だった。いろいろな理由をつけて、彼女が一番困って助けを求めているときに、尻尾を巻いて逃げ出したのだ。
 いつまでも彼女が泣き叫んでいる声が耳から離れなかった。

 彼女と私はやはり似たもの同士だった。彼女が会社をやめる自分が許せなかったように、私は彼女を捨てた自分が許せなかった。お互い自分たちに、がっかりしていたのだ。

 眠れない夜、私は彼女のことを思い出す。だが、今の彼女がどうしているのか、それを想像する権利は私にはない。

 ただ、一つの言葉だけが残っていた。暗闇の中で私はその言葉をそっとつぶやいた。
「あなたに何ができるの?」
 彼女の母親が私に向かって言った言葉だ。

 私は、何かに行き詰まると、いつも彼女の母親の言葉を思い出すようにしていた。
「あなたに何ができるの?」
 そのとき私は、あのときのように心を再び奮い立たすのだった。
 


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