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回想録 六、教師としての生活 その5

回想録 六 教師としての生活 その4からの続き

10、上田南小学校

定年まであと4年となって、出来てから10年目の新しい学校だった。北小、坂の上小、中塩田小と一緒にやっていた、竹田先生と4校目だ。
校長や教頭も年下だったので、自由ににできた。
学校創立10周年目だが、川辺小、城下小の子が合併で作られたので、親たちも自分の学校だという考えが薄い。それで、PTAで創立10年のお祝いをすることになり、竹田先生が中塩田の時に知っていたので、「学校記念誌」を作る主任にさせられて、なった。
PTAの役員の中では、簡単な10年の出来事を4ページくらいのパンフレットで、と言う人もいたが、「厚い本にしよう」と提案して通った。
竹田先生は学校の入り口に銅像を造ったり、記念行事があった。それらと写真を入れ、創立初代の様子がわかるように文章を書いてもらったりした。そのために一眼レフカメラも買った。竹田先生は夏休み中に作ることになり写真を撮った。

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それにプラスして近くの歴史的な出来事や、伝説なども入れ、学区がどういうところかも子どもたちにもわかるように書いた。夏休み中調べたり、書いたりして、三月前に出来上がった。その時のPTA役員さんで毎年飲み会をしていたが、会長が亡くなりして終わった。

途中で定年になったが、校長に頼まれて、3年担任で組を持った。講師は会議には少しだけ出ればよいので、いろいろできた。
竹笛を作ってクラスでやると、他の組の子も放課後並んで「竹笛作って」と言ってきた。
他の学年の困った子たちとも接して言うことを聞くようにした。
子どもの学年PTAの人とも飲み会をして、二次会で市内の行きつけの店で歌ったりした。
若い先生の学級の不登校児にも関わって感謝された。
最後の学校で楽しんで勤められた。

11、東塩田小学校

退職後、知っている校長に頼まれて、東塩田小学校の相談員を一年やった。南小で一緒だった先生が4人もいて、気を遣わずに済んだ。
一人の子が不登校になり、親が担任を変えろと言って困っていたが、前もって親子に会って遊んだり話したりしたので、登校するようになって、親も学校との問題が消えた。

他にも授業にならない子がいて、その子たちも面倒をみた。
一年生には無理な指導だと担任に言ってやった。
面白い校風で、相談員までPTA役員が料理屋で歓迎会を開いてくれた。

終わりに

どの学校でも、校長を含め先生方とも仲良くなれ、飲み屋の人もにも「先生らしくなくて良い」と言われた。
上田南小の仲間と15年間くらい、自分が10年、次の人に渡して幹事をやった。事務の先生や用務員の人も参加して。青木の温泉宿で飲み会をしていた。
現在はコロナで休会中。

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回想録 六 教員生活のまとめとして子どもや学校で感じたことへ

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