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回想録 二、4才~6才まで 湯原・切原村

二、湯原の生活 "三つ子の魂百までも

1、弟の博仔ひろしが3才の時に生まれた。二人の子どもの面倒は大変なので4才から7才の小学校入学まで湯原の祖父母の家で育てられた。内山へはたまに帰るだけ。

湯原の家は土屋家の本家で、新宅が近くに二軒あった。

家には、祖父母の他に兄妹の4人がまだ若く、小学生や中学、臼田高校生で居た。

家は、農業(多くはない)と店(砂糖・塩・酒・醤油、切手などを売っていた)。家族が多いし、村全体がゆったりした"新田"だ。

2、湯原での生活が基盤となったと思われるもの。

イ、食べ物で

祖父が鉄砲撃ちだったこともあって、家の中の「ムロ」に、赤ガエルを飼っていたり、山では山鳥、キジ、ウサギを獲ってきて食べさせてくれた。

祖母や他の女の姉妹も日常の食べ物を作ってくれた。芋汁、芋の煮っころがし、など自分家で作ったものや、イナゴ・タニシ、栗、ハチの子、蚕のサナギなども食べていた。野沢菜、たくあん、梅、漬物、ラッキョ、おはぎ、おやつにはコーセン"しいなの米をいって粉にしたもの"。池があって鯉を飼っていたので、鯉こくなど買って食べるものは菓子類だけ。

囲炉裏を囲んで、各人のお膳を出して食器を出し、箸も一人ずつ専用の。食べ終わると、自分の使った物は自分で洗う。"小さい自分は洗ってもらった"

・一粒のコメも無駄にするなというわけで食べた後、お湯を飲みながら沢庵漬物で洗ってから、御飯茶碗はしまう。

台所には裏山から、土管や竹を使ってみずを引き、大きな桶に一年中落として溜めていた。あふれた分は、水路を通り庭先の池に入れ、魚に食べさせていた。

祖父は時々山道に沿った土管に木の根や落ち葉が入っていないか掘り返してみていた。井戸はあったが新宅で使っていた。つるべ井戸だった。

ロ、湯原の人々(遊び方)

庭続きの新宅は子どもが無くて、夫婦とアカと言う名の犬だけ。毎日の様に行って遊んでもらった。~花札の遊び方も教わって、三人でよくやった。それぞれの札の名前や数も教わった。5点~20点までの札で勝負をする。構われながら遊んでいるうちに足し算ができるようになった。孫のように可愛がってくれた。

少し離れた新宅には、年齢が余り違わない子どもが4人いて、男二人はいろいろな遊びを教えてくれた。

パッチン(メンコ)ビー玉、くぎサシ、そり、パチンコ、コマ回し、トランプ、双六を教わった。(ビー玉遊びは土間にすりばち様な穴を掘り、早く最後穴に入れるゲーム)

・野山の食べられるもの

足長蜂の巣の中にいる白いミツの塊や幼虫を食べたり、桑の実、バライチゴやアケビ。

祖母の後について道を隔てた「おだい人」(蔵が二つ広い庭や池があり、同級生の敬造ケイチャンさんがいて、外遊びをした。

ハ、今も残っている文化的?なもの

〇昔はなし

寝る時は祖母と寝ていて、眠る前に昔話をしてくれた。桃太郎~大抵の話はしてもらった。何回も頼んで繰り返し聞いた。

※絵本や紙芝居で読んで覚えるものは不思議であった。

〇レコードポータブルレコード機があって、落語の「時蕎麦」ソバ屋で数の数え方をごまかす話」何回聞いても覚えていた。後は唄などだと思うが覚えていない「本」というものは無かった。

〇4才から5才の時、祖父母に連れられて古河(栃木県?)と水戸へ行った。

汽車で石井トンネル26を通って行った。行きは良いが帰りは峠を登る。煙が入って来た。

古河はふみおばさんの嫁ぎ先。水戸はみつじおばさんの嫁ぎ先、賀波沢さん。

湯原からたまに帰る(内山へ)祖父が荷馬車に藁を積んで行く。その中に乗せていったが、湯原に帰ると言うと「オレも帰る」といって帰って来た。

内山の近所の子どもは誰も覚えていない。湯原の時代は、皆に可愛がられて過ごした。

〇一年生の入学前の写真には、ふみおばさんとしげおばさんとの二枚あった。中込の写真館で撮ったもの。

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