マガジンのカバー画像

回想録 一庶民として生きた父の記録

22
父、86歳。長野県佐久市内山生まれ。ここ数年入退院を繰り返しています。2022年3月、自分の86年の記録を書いたので、残しておこうと考えました。(所々、文章に不明な点もありますが… もっと読む
運営しているクリエイター

記事一覧

固定された記事

回想録~はじめに~

はじめに  86歳の過去を振り返っての回想である。 人は兄弟、姉妹でもそれぞれ育った所に差がある。性格や好み、感覚も異なる。 戦争を挟んで、子ども時代の農家での生活は、自給自足だから自分たちで作り、料理し、水を井戸より汲み薪を山で集め、囲炉裏を囲んで食べる。作業する。 今とはまったく異なる。 病院で若いスタッフと話すと昔のことを興味深く聞いてくれる。伝記で知る人の生き方ではなく、平凡な人のことも何かの参考になるかとも思い、書いた。 漢字の忘れ方が酷く、辞書をひいて

回想録 その後(2022.10.5)(2023.1.1追記)(2023.2.18追記)

病状も落ち着いて、無事に87歳の誕生日を迎えました。 令和5年1月1日、父、87歳で亡くなりました。 コロナ禍ではありましたが、最期の一日病院に私も泊めていただき、看取ることができました。 ************* 2023年2月18日土曜日 多くの教え子や先生方に参列していただき、無事に四十九日法要と告別式を執り行うことができました。   特に「田中小学校で…」とおっしゃる方が多かったので、自宅に飾ってある父と田中小学校のクラスのみなさんと親御さんが集まった時の写真

+22

回想録 写真編

回想録 目次

はじめに 一、~3才まで ・・・内山 二、4才~6才まで 湯原・切原村 三、(その1)、湯原から内山へ 小学校1年生から終戦まで6才~ 三、(その2)、湯原から内山へ「終戦まで」小学生~ 三、(その3)、隣の松崎さん 四、中学から高校へ・大学受験(父が戦場から帰って来た) 五、大学生生活 六、教師としての生活 その1(大岡小学校(大岡村立大岡小学校中牧分校)・北牧小学校(長野県南佐久郡小海町「北牧小学校」)) 六、教師としての生活 その2(上田市立北小学校・

回想録 一、~3才まで・内山

一、内山村本郷5643番地に、佐藤家の長男として昭和10年10月5日生れる。家族は、父(喜和太)、母(志つ代)と祖母「いつ」の3人。 写真下の段真ん中が祖母のいつ。下の段左端が父の喜和太。写真上段右端が喜和太の兄の庫治、その隣が祖父。 父、喜和太と、母、志つよ。抱かれているのが自分。後ろの女の子は母の妹。 記憶はないが写真が残っていたので、載せておく。 1、余り記憶はない 祖母に連れられて、裏の2つの寺や床屋の赤沼さん、下の大塚さんの家へ行った。呼ばれ方は「ゆき坊」

回想録 二、4才~6才まで 湯原・切原村

二、湯原の生活 "三つ子の魂百までも 1、弟の博仔が3才の時に生まれた。二人の子どもの面倒は大変なので4才から7才の小学校入学まで湯原の祖父母の家で育てられた。内山へはたまに帰るだけ。 湯原の家は土屋家の本家で、新宅が近くに二軒あった。 家には、祖父母の他に兄妹の4人がまだ若く、小学生や中学、臼田高校生で居た。 家は、農業(多くはない)と店(砂糖・塩・酒・醤油、切手などを売っていた)。家族が多いし、村全体がゆったりした"新田"だ。 2、湯原での生活が基盤となったと思

回想録 三(その1)、湯原から内山へ「終戦まで」6才~

小学校で、学校名は「内山村立内山国民学校」1年生入学式は母と(父は前年(昭和16年2月)出征(赤紙で)。長子(妹)が10月に生まれた。開戦昭和16年12月8日 知っている子はだれもいない。常会だけで、男1人女4人もいたが(保育園の無い頃) 〇1年生 1.2年生担任は小松先生。いつも着物で袴。覚えているのは、清掃が終わると、職員室にいる先生に「先生、そうじが終わりました。御覧下さい」と言う。頭を下げ言うのだが「御覧下さい」と言うのは、使った事がなかったので、何回も言い直し

回想録 三(その2)、湯原から内山へ「終戦まで」小学生~

回想録三(その1) からの続き 内山の川原で。 外にも子どもだけでやる行事があった。 4月29日は「村祭り」の後その日に「水浴び場」を滑津川に石で堰を作り水をためる。少し下流のは女子専用の『ドヨー(堰)』と呼んだ。 各部落ごとに作った。4月の皮は冷たくて、震えながら小学生で作った。夏になると祇園祭りに神輿を出した。4年以上で神社のそばにあった公会場で、3日くらい前から、空樽に縄を巻いてその縄に榊の葉を刺して上にトタンで作った鳳凰を飾る。 7月31日の夜に道に出て担ぎ

回想録 三(その3)、隣の松崎さん

回想録 三(その2) からの続き  湯原から内山へ来て、いろいろ教わったのは松崎のじいさんやばあさんだ。子守りが縁で家族同様の付き合いになった。孫のように可愛がられた。 キノコの見分け方、わら細工、薪割り、魚すくい。 山の危険な所、川の危ない所など、見たり聞いたりして覚えた。 又、村にあった共同浴場へも行かせてもくれた。 「家では入会していなかった」から。  上の娘二人が製糸会社に住み込みで勤めていて、毎月家にお金を入れていた。会社が芝居を呼んだ時も連れて行ってもらった。

回想録 四、中学から高校へ・大学受験(父が戦場から帰って来た)

三、(その3)隣の松崎さん からつづく  父が帰ってくると冬だったので、田畑の仕事はなくて、店にも何もなく、専売品も配給だった。  庫治さん(父の兄)と植木屋の仲間と静岡へ行って、塩を焼いて内山へ持ってくる仕事をしていた。塩も配給だったので、貴重品だ。カマスに入れて囲炉裏の天井に吊るして置いてニガリを採っていた。父は軍人の特別給付の列車の無料パスの券を持っていたので、塩を運んでいた。  夜になると戦場の話をした。近所の人もお茶飲みに来ていた。満州から南へ進み、四川省の重慶を

回想録 五 大学生活

回想録 四、中学から高校へ・大学受験(父が戦場から帰って来た) からの続き 1、宿 初め学生寮に入れなかったので、小諸の竹内健二さんの家に下宿させてもらった。長野までは汽車で通った。大事にしてもらった。 少しして、長野の本郷の家に下宿した。大きな家で、桜井兄妹も下宿(自炊)していた。少し出ると田畑が広がっていた。 思い切り息を吸って、『自由だ』と思った。 田の畔や道端に草が伸びているのを見て、「牛の餌にしたら」と思った。 次の年、学校の近くにあった寮(あけぼの寮)に入った。

回想録 六 教師としての生活 その1

回想録 五 大学生活 からのつづき 1、大岡小学校 現在の大岡小学校 最初は、学校近くの月津さんの離れの二階だ。囲炉裏がある所で、朝夕の食事をした。ニンニクを灰の中で焼いたものを食べたり、馬が同じ屋根の下にいた。 半年ばかりで学校の裏にある、教員住宅に入った。隣部屋の1つ年上の太田先生とよく話した。 職員会は分校も一緒だった。分校の先生たちは会の後、飲んでいったりした。 放課後になると、職員室で下の農協でクジラの肉を(塊)で買い、切り分けてストーブで焼き、それを肴に飲んで

回想録 六 教師としての生活 その2

回想録 六 教師としての生活 その1 からの続き 3、上田北小学校 1学年から3年まで受け持った。同じ年と次の年に30代の元気の良い先生が集まっていた。他郡から来ている人が多かった。 校長は佐久の人で、西田哲学を学習会で読み合わせていた。 教頭は田中先生で上田小県のエリートだった。道徳の資料作りで授業を見せるようによく言われて、やった。 体育の係になり、伊藤先生とやった。 「俺が俺が」の先生で自分のやりたいことを一人でやっていた。 その頃、市内の小学校で水泳大会(6年生

回想録 六 教師としての生活 その3

回想録 六 教師としての生活 その2からの続き 5、坂の上小学校 研究校と小諸地区では言われていたが、年配の先生が多く、若い者は少なく、研修はほとんどなかった。それで上田先生の本を読む会をやろうとしたが、続かなかった。 夏休みに読書会を計画して、裏の園城寺(佐久市内山)は涼しいのでそこを貸してもらってやったが、昼の時に寺のおばさんがビールを持ってきてくれそれを飲んだら、研究会は終わった。父母とは宴会をして皆仲良くなった。 四年生から六年生まで三年居た。 子どもの卒業記念に