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下り坂の踏切探しと「福江」の海辺

踏切越しに海が見える。写真は福江駅(下関市)の近くで撮影した。山陰本線の単線が横たわり、その向こうに響灘が広がる。

新型コロナウイルス感染症の拡大防止のため、国および地方自治体は外出等の自粛を要請しています。掲載する記事はすぐの外出を促すものではありません。未来のお出かけの際に、参考にしていただければ幸いです。

海への誘いと戒め

20200406_海の見える踏切_山中踏切_色調整_2

海に誘う下り坂と、逸(はや)る気持ちを抑えようとする赤色の明滅。鎌倉市の日坂が有名だろうか。日本のそこらじゅうにありそうな風景だが、意外と見つからない。

ここは福江駅の南側に接する中山踏切。線路と直交している1車線の狭い道は、ゆるやかな下り坂だ。

インスタグラムに載せたところ意外と反応があったので、noteにも載せてみたというのが本投稿のいきさつ。つまり、写真を出した段階で目的は果たされた。今日の投稿は出オチ。このあとの本文はそれほどの意味を持たない

20200406_海の見える踏切_表題

福江駅が開設されたのは長州鉄道・東下関-小串間の開業と同じ1914年(大正3年)。1936年(昭和11年)の地形図ではっきりと道路と線路の交差が確認できることから、中山踏切も当初からあったものと思われる。その時代から警報機や遮断機を備えたものであったかは分からないが。

20200413_海の見える踏切_地形図_福江付近

日本列島、鉄道がぐるり

日本の鉄道の多くは、海沿いに線路を敷いてきた。

鉄道というのは坂道に弱い。アメリカ中西部のように平坦であれば街と街を直線的に繋いだのであろうが、起伏に富んだ日本では、トンネルや橋といった大規模な土木の力を借りなければ最短コースで都市同士は結べない。新幹線時代になってそれは可能になったが、鉄道黎明期は平坦な場所を縫うように鉄道網が造られていった。

海沿いは標高が一定で、航路との連絡にも都合が良い。用地買収が容易だったことも一因に挙げられ、明治から大正にかけて海岸伝いに線路が延伸。鉄道網だけを抽出しても日本の輪郭がくっきりと浮かび上がるまでに発展した。

下の画像はOpenStreetMapから抽出したもの。本州や九州は注記する必要もないほど輪郭が分かる。もっとも、こうすることで北海道の深刻さも分かるわけだ。(このほか沖縄には「ゆいレール」がある)

20200404_踏切探し_日本地図_白黒

しかし近年は海の埋め立てで海岸線が遠くなったり、鉄道の高架化や廃線で踏切が減少。踏切の向こうに海が見える景色は着実に減っている

手持ちの旧版地形図から、「北九州市戸畑区」と「下関市から山陽小野田市にかけての海岸線」の一部をピックアップし、現行の地理院地図と比較してみた。旧版地形図の測量は1936年(昭和11年)。

20200406_海の見える踏切_地形図_戸畑付近

まず戸畑に注目すると、戦中戦後を経て鹿児島本線の北側は八幡製鉄所戸畑作業所(今年4月から「日本製鉄九州製鉄所八幡地区(戸畑)」という名称になった)の用地が拡大する。ここまで海が遠くなると、鹿児島本線が海に接している風景はなかなか想像できない。地図右下の板櫃川下流にわずかに面影をとどめるのみだ。

20200406_海の見える踏切_地形図_小月付近

続いて下関市の小月から山陽小野田市の埴生の一帯。農地としての干拓が古くから進んでいた場所で、乃木浜総合公園があるあたりの人工的な地形は、明治後半から大正初期には埋め立てられている。

昭和時代を通じて変化したのは埴生側。1940年には帝国陸軍の飛行場(現在の海上自衛隊小月航空基地)が開設されたりして地形が改変。貝汁で有名な「みちしお」が設けられる場所は本当に潮が満ちてきそうな場所だった。

このようにあちこちで海は遠くなってしまった。自然の海岸線が残る場所は今や貴重だ。

海に向かう道と踏切のコラボ一覧

そんな地形図から読み解く楽しい話はまたいつかするとして(一番最後に少しだけおまけコーナーがあります)、海に近接する踏切が昔のほうが多かったという根拠は分かっていただけたと思う。

特に海に向かって下り坂になっている踏切は数が限られる。車窓の風景を思い出し、ストリートビューを眺め、北九州市内と山口県内で「海に向かって下っている道」と「踏切」という関係性がぴったり当てはまる場所を表にまとめてみた。

20200404_海の見える踏切_一覧表

20200406_海の見える踏切_地図落とし込み

お気づきの通り、北九州市内に該当するものはなかった。海を望む踏切は門司区にいくつかあるが…。

強いてあげるなら、国道3号線と199号線を結ぶ道にある「片上踏切」の前後は海に向かってゆるやかに下っている。けれども踏切がかまぼこ形状のためリストからは除外した。北九州銀行レトロラインの踏切も綺麗な構図には違いないが、「下り坂」ではないので入れなかった。岩国市の「一尾田第1踏切」と「堀田沖第3踏切」も同じ理由で外している。

下り坂にこだわったのは、単に私が好きだから。別に、「人生、下り坂最高ー!!」と言いながら自転車で下っている火野正平さんの番組(こころ旅)の見過ぎというわけではない。下り坂の上に立つと、当然ながら脚立を使わなくても海の青や空の青をより広く見渡せる。そもそも小さな私が、特別な道具を使わなくても巨人の視座を得られるのだから、こんなにうれしいことはない。

20200406_海の見える踏切_山中踏切_2

踏切というのもいい。青い空、青い海に対して、踏切を構成するパーツは赤、黄、黒。警戒心を惹起するような色と青とのコントラストがはっきりしていて、画面が引き締まる。それに踏切という構造物に対する根源的な恐怖が画面に緊張感を与えてくれる。「人生、下り坂踏切最高ー!!」。

福江は原色の宝石箱

ちなみに、福江駅界隈は彼岸花の美しさも魅力的。やはり赤と青のコントラストに惹かれる。

20200406_海の見える踏切_彼岸花

福寿山善行寺の境内には白い彼岸花が咲いているので、秋は秋で飽きない。それだけではない。福江の浜辺にはシギ科をはじめとする水鳥たちが飛来するし、足元にはシーグラスと呼ばれる角の取れたガラス片を容易に見つけられる。楽しい海辺だ。

20200406_海の見える踏切_福江の海_鳥_1

20200406_海の見える踏切_シーグラス

一方で漂着物が多く、気をつけなければならない。単に海とふれあうならば、海水浴場として整備されている安岡や吉母に行くべきであろう。外国の文字が書かれた漂着物を眺めるのも楽しいけれど。このお話はまた別の機会に。

特段、話が長くなるような話題でもないので、このあたりで終わり。日本に平穏な日々が戻ってきたら、ぜひ身近なスポットを探してみてほしい。近頃は撮り鉄のマナーが問題になっているので、踏切とふれあうときもルールをきちんと守るという当たり前をお忘れなく。

「少しだけおまけ」

さて、最後に少しだけおまけ(いや、どちらかというと「できるだけおまけです」とでも言うべきか)。

長門市方面の列車は、福江駅を発車するといくばくも行かないうちにトンネルに入る。下の写真にこんもりとした山が見えるが、付け根に最初の「新第二小津見隧道」(トンネル名は諸説あり)があり、さらに吉見駅に近づくと「第一小津見隧道」(吉見隧道とも)をくぐる。

20200406_海の見える踏切_トンネル方向

同じ「小津見」姓を名乗るきょうだいトンネルながら、鉄道開設当初の姿をとどめているのは第一隧道のみ。実は第二隧道は当初のものではない。鉄路は長州鉄道として1914年(大正3年)に開設。第二小津見隧道は後年に付け替えられ、現在のトンネルの東側に遺構が残っている。

遺構の場所に行こうと思っても場所から考えて危険を伴うので行くべきではなかろう。インターネットを探すと、なかなか激しい感じのサイトの訪問記録は見つかった。いちおうリンクしておく。

20200413_海の見える踏切_地形図_福江付近_旧トンネル

そもそもトンネルと線路の付け替えはいつ行われたのだろうか。

改変が軽微なためか、ローカル線(山陰本線だけど)の悲哀か、『鉄道廃線跡を歩く 第10巻』(宮脇俊三編,JTB刊,2003年)に収録の「全国主要線路変更区間地図」には記載がなかった。市史や町村史を当たれば分かるのかもしれないが、図書館に行けるような状況ではない(2020年4月執筆)。

トンネルと旧線はいつ付け替えた?

そこで歴代地形図を比較すると、1931年(昭和6年)版に比べて1936年(昭和11年)版ではトンネルの位置が少し西側に移り、今の地形図と全く同じ線形になっている。そのため付け替えが1930年代前半に行われたのは間違いない。

権利クリアランスの関係で歴代地形図を例示できないが、上の地図にピンク色で示した旧線はややカーブが急で、現在線は直線基調になっている。

インターネットでは関係市町村史の全文を見られないため、次なる資料として、鉄道省告示が載る官報を探してみた。官報には具体的には土地買収や鉄道敷設の許認可が掲載される。

しかし、国立国会図書館デジタルコレクションで細かく検索してみたものの、さすがに既設路線のわずかな変化は載っていなかった。

鉄道省が告示していたのは1925年(大正14年)の長州鉄道の一部区間国有化と下の画像のビッグイベント。「山陰線ノ部 山陰本線ノ行中『京都須佐間』ヲ『京都松江幡生間』ニ改ム」。1933年(昭和8年)2月24日に山陰本線の須佐駅-宇田郷駅間が開通し、京都から幡生に至る線路が「山陰本線」として全通したのだ。

20200413_海の見える踏切_官報1839

これによって山陰本線全通で往来する列車は増えたはず。経済回復と戦時体制への移行という時局の折、広域輸送網の確保や機能増強の必要性から、線形改良が各所で進んだのではないかという仮説は立てられる。

運輸省(現国土交通省)が編纂(へんさん)した五十年史は次のように時代を概観する。

昭和8年以降の日本経済は、戦時体制の進展とともに景気が上昇し、鉄道輸送量は、貨客とも増勢に転じた。日華事変を景気として輸送量はさらに増大傾向を示し、しかも、船舶の不足とガソリンの消費規制によって海運及び自動車の貨客が鉄道に殺到するところとなり、鉄道は戦時国内輸送の大きな担い手としてその責任が加速されていった。(運輸省五十年史)

国立国会図書館デジタルコレクションを出て、次に向かったバーチャルライブラリーはGoogleブックス。キーワード検索を掛けたところ、「よしみ史誌編纂委員会」が記した『よしみ史誌』の一部を閲覧できた。それによれば、どうやら福江から吉見の区間はそこそこの難所だったことがうかがえる。

福江もすぎて七曲り、船越峠のトンネルはさほどの坂では無けれども、汽車はあえいで難儀する。降りて後から押したなら、もちっとは速かろう。(中略)一等客車はランプが点き、緋羅紗のじゅうたんを敷してあり、三等客車は板座席。ランプもつかず暗闇の長短二つのトンネルを抜けて吉見の駅に着く。駅は今よりずっと西、昔の中学下あたり。水田の東端に近く、駅の前なる諸式屋は藤田の光蔵小間物店。とり分け吉母の人たちに愛想よろしと人気あり。(よしみ史誌)
※Googleブックスの読み取りミスと思われる部分は修正した。具体的には暗闇←暗闘、緋羅紗←耕羅紗

全文公開ではないためにいつ頃の記述かは分からないが、興味深い。問題はその全文を読む機会がなかなかないことだが。

インターネットで分かるのはこのくらいで、謎の解決には至らず、推論のトンネルからは出られなかった。旧隧道は崩落しておらず、埋め戻しもしていないので変状が原因とは考えにくい。勾配が大きく緩和できるほどトンネルが長くなったわけでもなく、やはり1930年代に何らかの理由――経済的な、あるいは政治的な――で線形改良が必要になったのだろう。

「難儀した峠」をもやもやを抱えながら紹介したところで、おまけを終わりにしようかと思ったが、よしみ史誌に触れたことで別の謎が浮かび上がった。

吉見駅の現在地は、昔とは違うらしいのだ。「駅は今よりずっと西、昔の中学下あたり」と史誌。確かに今の吉見駅より300メートルほど西側には吉見小学校(中学校も当地に開校し後に移転)がある。

ウィキペディアもスルーする駅の移転

下関市が公開している『しものせきなつかしの写真集』には、1914年(大正3年)に撮影された写真が掲載され、「旧吉見中学校の下あたりにあった」と注釈が付けられている。『よしみ史誌』にも、「長州鉄道の開通に伴い吉見下三千三十七番地(現在の大石まるやすマーケット付近)に停車場として吉見駅が開設された」という記述を見つけた。

20200413_海の見える踏切_地形図_吉見駅

これもまた現在地にいつ移転したのかは不明。地図を比較すれば昭和初期までに移転したのは間違いないが、駅の移転に関してはインターネットで閲覧できる『下関市年表』にも記述はなかった。何よりも不思議なのは、300メートルも移転しているのに、みんな大好きウィキペディアもスルーしているという点だ。

今の吉見駅は、2両編成中心になった現代の運用には不釣り合いなほどにホームが長い。220メートル超の長さがあり10両編成くらいまでは停車できる。かつては貨物や旅客で賑わっていたことが容易に想像され、需要拡大が移転を後押ししたと思う。

20200406_海の見える踏切_吉見駅

上の写真は現在の吉見駅の跨線橋から長門市方向を写したもの(2019年)。奥に見える踏切のさらに向こう側に旧駅があった。そして偶然にもズームで撮影したスナップがあった。下の写真は2年前に撮影した。

20200406_海の見える踏切_吉見駅_2

手前に10番と打たれた西田川踏切があり、奥に9番の尾崎踏切が小さく見える。尾崎踏切は『よしみ史誌』の記述に出ていた「まるやす」付近と「旧中学校」(現吉見小学校)を結ぶ歩行者向けの踏切だ。

旧駅はまさに尾崎踏切のあたりにあったのだから、明らかに前後の線形は悪く、すぐにカーブしてしまう。駅の機能を拡大するには手前側に移らざるを得なかったのではなかろうか。平穏な日々が訪れたら、図書館や現地で確認してみたい。

鉄道で下関が近くなった「はず」

ところで、長州鉄道開業当初の吉見駅から東下関駅(東駅)までの所要時間は55分だったそう。東駅そのものがなくなってしまったため単純比較できないが、今は吉見駅から下関駅まで24~25分ほどなので、30分は短縮されたことになる。

「100年の進化はすごい」などと感嘆の声をあげたくなるが、すんなりと数字を受け入れてはいけない。

1914年の開業からちょうど50年後、1964年(昭和39年)の時刻表をめくると、吉見から下関まですでに22分で結んでいる列車が存在することに気づく。

後に梶栗郷台地駅が新設されているため所要時間が延びるのは仕方がないが、最初の50年で30分を短縮し、その後の50年で零分を短縮した。進化は新幹線が開業した1964年で止まっている。

20200414_海の見える踏切_時刻表比較

1964年当時は蒸気機関車に加え、DF50形ディーゼル機関車が牽引する客車列車や旧式のディーゼルカーが運用に就いていたと思われる。

時刻表左側の817列車はなんと京都から下関までの長旅。京都を午後10時5分に出発し、しばらくは主要駅のみに停車して鳥取に午前3時頃に到着する。米子あたりで各駅停車となり、松江に同6時頃、長門市に午後2時頃、そして下関に午後4時半に着く。停車駅の少ない米子まではD51形蒸気機関車、米子以西でDF50形ディーゼル機関車で牽引していたという記録を見つけた。記号の「1」は一等車を連結しているという意味だ。

一方、ディーゼルカーでの運用を示す「気」印がある845D列車は、キハ20系列やキハ17などの旧式ディーゼルカーで運用されていたのではないかと思う。その後、キハ40系列(下の写真は山陽本線を回送中のもの)が彼らを置き換えるのだが、未だに新車が来る気配はなく、製造から30年以上が経過しても現役で走り続けている。

20200406_海の見える踏切_キハ47

キハ40系列は見た目からも分かるように頑丈で長持ち。ただ、その分「重たい」という弱点を持ってしまった。みんな大好きウィキペディアは、キハ40系気動車の項目で「在来の気動車よりエンジン出力は若干増加したものの重量も増加しており、運動性能はあまり向上していない」とこき下ろしている。

でも、頑丈なので、まだまだ動くには動く。輸送力自体は大きいので重宝されているのだ。当地以上の閑散区間になればもっと小さな車両が入ってきているが、JR西日本の適度なローカル線には、昭和の色香が強く残っている。

踏切に始まった旅は、今日はここまで。気づけば「おまけ」のほうが長くなってしまった。「少しおまけ」どころか、ラムネ菓子に付いた食玩のよう。これぞ食玩記事。あるいはおもちゃが欲しくて頼んじゃうかもしれないハッピーセット。

20200406_海の見える踏切_飯井駅

何の話をしてきたのかもう分からなくなってしまったので、最後は2014年撮影の飯井駅の写真。もはや懐かしくなった黄色い列車を添えて。

この駅の東側2キロほどのところに、海へと下る明石第一踏切がある。飯井駅自体も海が見える美しい駅だ。いい駅にはいいことがあるはず。「いいね!」。そんな今日もおうち時間。旅の妄想はふくらむばかり。

参考資料
「下関市年表」(下関市市史編修委員会編,下関市刊,2011年3月)
「下関市史 別巻(しものせきなつかしの写真集)」(下関市市史編修委員会編,下関市刊,1995年3月)
「よしみ史誌」(よしみ史誌編纂委員会編,下関市立吉見公民館,1985年12月)
「運輸省五十年史」(運輸省50年史編纂室,運輸省,1999年12月)
「鉄道廃線跡を歩く 第10巻」(宮脇俊三編,JTB刊,2003年10月)
「時刻表完全復刻版 1964年9月号」(JTBパブリッシング,2020年2月)
「JR時刻表」(交通新聞社,2020年2月)
「ポケット全国時刻表」(交通案内社,2004年1月)
「官報」(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)
「地理院地図」


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