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当たり前という幻想。

もう「こ」と打つと、「コロナウイルス」と出てくるようになった。パソコンも、スマホも。彼らが記憶するように、私たちの記憶の置き方も変わってきていると思う。この1年は特別なもので、いずれ元に戻るのだからと、記憶に入れないようにしていたあれやこれやが、だんだんと蝕むように日常の中に入ってきて、避けられぬ記憶になろうとしている。

10年くらいしてNHKアーカイブスの番組を見たら、「この番組は2020年に撮影されました。当時の感染症対策のため、出演者はマスクをしています」などと注記が出るのだろうけれど、もしかしたら10年後だってその撮影スタイルが当たり前なのかもしれない。

新型コロナウイルスは世の中の理不尽を浮き彫りにしたし、当たり前の尊さを意識させられた。いや、もっと厳密に言えば、「当たり前こそが尊いのだ」という幻想を抱かせた。

考えてみれば、「当たり前」などというものは意外と存在しないのだ。鴨長明の「ゆく川の流れは絶えずして」などと壮大に言うつもりもないが、「ゆく川」というのは「死」の暗示であり、無常の極みでもある。実際に10年もすれば日本人の1割は死んでいる。10年間の死者数は1300万人、出生数は900万人弱くらいだろう。世の中がいつものように流れていながら、1割も入れ替わるというのは、静かな恐ろしさがある。

手にしているもの、使っているものも、それこそ「当たり前のように」入れ替わる。10年前といえば東日本大震災の年だが、あの頃に比べればスマートフォンは考えられないほどに進化した。街も大きく変わったし、インターネットサービスも移り変わりの激しさを思わずにいられない。

私がよく行っていたカフェはほとんどがなくなった。ある場所は今は美容室になり、もはやカフェラテやクロワッサンは出てこない。またある場所は居酒屋になった。畢竟するに、当時の「当たり前」の場所や手段は、10年後に「当たり前」であるわけではないということだ。

このたびのウイルスで普段の暮らしが大きく変わったのは間違いがない。10年くらいで起きるであろう変化を数カ月で体感したようなものだから、どうしても受け入れられずに、何か懐古趣味的に元の姿にすがりついてしまう。

けれど、1年が過ぎようとする今、少しずつ「元の姿」が思い出せなくなってきている部分はあるだろう。新しくなっていく当たり前をどこかで受け入れながら、でも、どこかで反発しながら、適応していくしかない。変わらないのは、世の中は移り変わり、人は成長し、あるいは老いるという事実のみ。記憶を封印せず、逃げ出さず、正視する勇気を持ちたいものだ。

※冒頭の写真は2020年5月撮影

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