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スケッチ

先日はじめて琵琶湖博物館へ行った。
内容の充実っぷりに一気に魅了され迷いなく年間パスポート会員になったので、近いうちにまた行きたい。

展示内容も素晴らしかったのだが「大人のディスカバリー」という展示室で、フリーのスケッチ用紙が積んであり、描いた人が自由に掲示できるコーナーがあった。
夏休み中の日曜で混んでいたので自分は手を出さなかったのだけれど、掲示してあるスケッチと、さまざまな標本をじっとみつめながらスケッチしている人々(おとなもこどもも)を眺めていて、ぐっと胸が熱くなった。

普段絵を描いていないであろう人のスケッチの、ぐーっと一か所に集中して見えるすべてを描こうとしている絵。
筆圧弱く見えた角度からそのままとにかくそのまま描こうとしている絵。
興味のあるものだけ走り書きのように描いてある絵。
たまにある異様に上手い絵。
デフォルメされて虫の口がニコッとしてる絵。

絵というのはそもそもこういうものだったんだと思い出したような気持ちになった。
世界をどう見るか。
見ること描くことで世界を知覚していくような。

その数日後、森を歩くバイトで一緒の勤務になった同僚の方に「最近時間がある時に見える木をスケッチしている」と描いたノートを見せてもらった。
実際に見て描いてみると、なんでこんなに?というくらい曲がっていたり、樹形に意味があることがわかってくる、と。
私が絵を描いていることもご存知なので「葉を全て描こうとすると上手くいかないのだけれどどうすればいいか」と尋ねられて、唸った。
「私だったら葉を全て描かない…ですね。”絵になる”ようにと思うと大雑把なシルエットだけ拾っちゃうかも」と答えながら、「世界の見方…!」と思っていた。
絵になるように、ではなくスケッチはそのものを”見る”ためのものなので、もちろんそこは違って当然なんだけれど、自分はスケッチをするときもつい絵にすることに重きをおいてしまう。

その方は人類学者でもあるので、私はお会いするたびに最近気になっていることや興味のあることなどをお話しして知らないことを教えてもらう時間をとてもたのしみにしている。
その時も漁業や魚食の話から「何かに興味を持って知っていくとそのきっかけで今まで見ていたものの解像度が変わっていって、それが本当におもしろいですよね」という話をしていて、それは割と自分も生きていく上で重視している視点だと思っているんだけれど、その言葉からこの数日見てきた人がスケッチをする姿を思い出して繋がりにピントが合った感じがした。

絵はずっと描き続けているけど、目も悪いし、今制作で描こうとしているのは実体のない風や光や肌感覚のようなものが主で、見たものをそのまま描くことは下手で苦手だという意識のままここまできた。下手だけど目の前のものを描こうとする行為はたのしいし好きなんだよなということを思い出したので、”絵になる”を無視できるかどうかは置いておいてもうちょっとスケッチする習慣をつけたいなと思った。


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