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AI時代に求められる映像クリエイター像を考察してみる

つい先日、Chat-GPT4oの発表がありました。

少し前に遡ると、Chat-GPTを開発するOpenAI社が新たな動画生成AIとして発表した「Sora」が衝撃ニュースとして全世界に発表されました。
テキスト指示だけで現実世界と遜色ない映像をAIが生成する。
このことに映像業界界隈がざわついたことは容易に想像できます。

この動画生成技術「Sora」はAdobeと連携して動画編集ソフト「Premiere pro」で使用できるようになる。

今後、実写と生成AI動画の境目は極めて曖昧にとなり、私たちが普通に目にする映像が実はすべて生成 AIで作られていた!なんてことはごく普通に起きてくるでしょう。
動画編集×生成AI はもう当たり前の世界。


AIにはなくて人間だけに備わるものとは?

そこで一つ大きな問いが発生します。
それは、映像制作に携わる者の今後の身の振り方、在り方について。

「Sora」で作られた映像を観てると人が撮影・編集する意味が怪しくなる。
映像編集作業も極めて近い未来、人の趣向や心揺さぶるポイントをAIが学習し、映像生成することは容易に想像できます。
それも人が作業する何倍も速い速度で複数パターンもの映像作品を生成しては人間に選択肢を与えてくれる。

人間に求められることは、具体的な作業指示をすることと、生成された映像を使う・使わないを判断するディレクション能力だけか…。


ただ、撮影・編集作業が全ての今後AIに置き換わるということも考えにくい。
なぜならまだ「どうしても人が撮影しないといけない」「被写体が生身の人間じゃなきゃだめだ」というケースがあるから。

実写でも撮影を行なって、その一部に生成AIが組み込まれる。
その割合が5:5なのか?7:3なのか?9:1なのか?の話。

では、「どうしても人が撮影しないといけない」「被写体が生身の人間じゃなきゃだめだ」というケースってなんだろう?

この問いに真剣に向き合うことが、これから映像に携わる者として生き残るか否かの分岐点になるような気がします。

機微と琴線

では、「どうしても人が撮影しないといけない」「被写体が生身の人間じゃなきゃだめだ」というものはなにか?

それを自分なりに考えてみました。

その答えはドキュメンタリー要素を持つか否か。

映像には映画・TV・CM・MV・VP・ドキュメンタリーなどいろんな制作ジャンルが存在します。

そのときにドキュメンタリー要素が含まれていることがこれから映像制作には必須になると僕は考えます。

ドキュメンタリーとは、ネットで調べると一般的に「虚構を用いず実際のままを記録した性質を持つこと。」とあります。
ドキュメンタリーは画像や映像を生成するAIとは真逆の立ち位置にあるのかも。

そしてさらに深掘りすると、AI時代に求められるクリエイターは、ドキュメンタリー要素を備え、それに加えて
「人間の「機微」を捉えられて、人間の「琴線」に触れる映像を創る。」ことができる人だと思います。

機微とは、
表面だけでは知ることのできない、微妙なおもむきや事情。
琴線とは、心の奥深くにある、物事に感動・共鳴しやすい感情を琴の糸にたとえていった語。
この二つの日本語は実に美しく繊細な表現だと思う。

人間の表面だけでは知ることのできない苦しみや悩み、その人にしか話せない人生をクリエイターと対話によって引き出し、その当事者の人生観や今を懸命に生きている姿を通じて映像を観る人の心の「琴線」に触れる映像を創ることができるひとこそがこれからのAI時代に求められる映像クリエイター像。

では、「人間の「機微」を捉えられて、人間の「琴線」に触れる映像を創る。」ためには何が必要か?

次回につづく


#心の機微を捉える映像クリエイター
#生きがいと希望
#映画を創ってこの世界を愛で満たす
#この世界は美しい


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