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人生の転機 ①

25歳で映像制作に出会ったことで、それまで志望していた警察官になることを諦めました。不合格は15回を数えました。

諦めというと、ネガティブに聞こえるかもですが、僕の中では自分がこれからやることが明確になったので未練はなく、スッキリして次に向かえました。


転機の訪れ

それからは、介護の仕事をしながら空き時間に独学で映像編集に取り組むという日々を過ごします。新しい知識を身につけることが楽しくて仕方なく、映像の魅力にどんどん惹かれていきました。

少しづつですが、お金をいただいて映像を創るオファーもいただけたり着実にスキルも向上。と同時に自分の中でもっと本格的に映像制作を学びたい欲が出てきたんです。

そんなとき、たまたま知り合いの女性の友人が京都で映像制作の会社を立ち上げるということで、僕に一度詳しく話を聞いてみないか?と相談を受けました。
その会社が後の今につながる会社だったのです。

ドローンの映像に魅せられて

2015年6月。大阪の梅田でU氏と面談を行うことに。
初めて出会うU氏からこれから行う事業のこと、そしてこれから「ドローン」の時代がやってくると、そこで観せられた映像が素晴らしかったんです。


今でこそドローン映像はポピュラーになりましたが、当時はドローンの「ド」の字も知らず。初めてみたドローンの映像美に衝撃を受けたんです。
「ここで働くと自分の映像制作スキル、可能性が拡がるかもしれない」

勤務地が京都という離れた土地。そして形もない会社で働くということ。
面接時には自分の想いであるドキュメンタリー映画を創って「生きることは素晴らしい」ことを伝える人になりたい。と伝え、いろんなリスクがあったけれど、当時新婚で家庭を抱える身でありながらあえて不安定な環境に身を置くことを選択しました。

理想と現実の乖離

2015年10月から京都で働きだすのですが、まぁここからが苦悩の始まりです。
映像制作が行える、スキルを磨ける。と期待と希望を胸に新しい仕事に取り組むのですが社会はそんなに甘くない。

実際に僕は、入職と同時期に設立された一般社団法人ドローン撮影クリエイターズ協会の事務局を担うことになったのです。

専従スタッフは僕1人。
就業規則やハウスルールなんてものはなく事業計画から全て1から作り上げる必要がありました。

これには正直戸惑いました。

目の前のタスクや資料作成、事業を形にすることで日々追われ、
少しづつニーズが生まれてきたドローンスクールの開催準備に多くの時間が割くことに。

カメラを触る、編集ソフトを操作するなんて遠い彼方に行っちゃいました。
そんな状況の中で2〜3年が過ぎていったのでした。

つづく。

#心の機微を捉える映像クリエイター
#生きがいと希望
#映画を創ってこの世界を愛で満たす
#この世界は美しい

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