安心と芸術

わたしたちの文化の信条とは、精神の平和的な中心にはなく、完成を目指すわたしたち自身の欲望の、事物へと向かう希望に溢れた投影の中にある

「ジョン・ケージ作曲家の告白」 ジョン・ケージ (著), 大西穣 (翻訳)

作曲家ジョン・ケージが、1948年に行われたとあるカンファレンスで語った言葉。
徹底して新しさを追求し続けたケージは、その“新しさへの追求”がなぜ重要であるのかを、上の言葉で説明する。
ちなみにこの発言の後、「ばかげたものみ見えるかもしれませんが」という弁明と共に、かの高名な作品《4分33秒》の構想が語られた。
時代変わって、2019年の日本において、次のような発言をした人がいた。

「大衆的な民主主義の時代においては、一番の権力者は民衆です。彼らに全く受け入れられない「アート展」には持続可能性がありません。公共の場を借りた展示が、多くの人の学習意欲を満たし、十分に教育的で説明的であってほしい、という需要に応えるものになっていくことが求められている結果です。」

2019年あいちトリエンナーレを見た日本の政治学者のツイートだ。
私たちは偉大な音楽家ジョン・ケージの言葉を借りなくとも、芸術が精神を安定することを目的としていないことを知っている。あるいは、彼が言うところの「欲望」こそが芸術文化を前進させてきたという事実もまた、知っている。

そして、そのようなものが芸術だからこそ、それ自体が何かを教育したり説明したりもすることはない。芸術は異物として人々の心に傷を負わすようなものでなければならない。

アインシュテュルツェンデ・ノイバウテンのメタルパーカッションをはじめとしたインダストリアルサウンドを聞いて、待ってましたと言わんばかりに、安心する人がいるだろうか(いないとは言えない)。
心の安らぎを求めて、人が音楽にチェンソーを使ったりするだろうか(いないで欲しい)。
未知なる音、未知なるリズムを求めることは、人間の欲望であり、新しい何かを生み出すエネルギーそのものだ。

仮にも「学者」と呼ばれる人間が上のような認識を披瀝してしまうのは、日本の社会もとい、日本の芸術教育の破綻が原因であることは言うまでもない。

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