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ある夏の日記

初出:『フリースタイルな僧侶たち』vol.59、2021年

7月19日(月)

気温は三十度をこえている。夏だ。

なんとなく実験したい気分になって、裸眼で外を歩いてみた。私の視力は低い。外界がぼやける。普段はメガネを使うことで生活している。

ひとつ気付いたのは、脳がスマホの予測変換のようなことをしていることだ。路上に落ちていた茶色のモヤを犬の糞だと予測したが近づいてみると落ち葉だった。こうした予測は常にされているのだろうが、裸眼だと予測から確定までのラグが大きくなるため、脳の処理に気付きやすくなるのだろう。

夜、ふたたびメガネなしで外出した。裸眼で夜の町を歩くと信号機の光が花火のように膨らんで、幻想的な姿を見せる。ファミリーマートの緑色の光が四方にぼんやりと拡散されて、夢の世界のようだった。

7月20日(火)

例のごとく夏だ。気温は三十三度。セミが鳴き続けている。今日は普通にメガネだった。コンビニに行く途中の道でトカゲを見た。黄土色の体をして、日差しを浴びて静かにしていた。トカゲの口角は上がっていた。笑っているように見えた。コンビニでアイスコーヒーと堅あげポテトを購入した。

帰り道でも同じ場所にトカゲがいた。微動だにしていない。舌を鳴らしたが反応はなかった。ネコと付き合っていた時のくせで、小さな生きものを見ると舌を鳴らしてしまう。トカゲの聴覚はどうなっているのか。聞こえているのか、いないのか。裸眼で歩いていた場合、路上のトカゲには気付かなかっただろう。このサイズでは黄土色のモヤにすらならない。端的に無である。見えないものは存在できない。

7月21日(水)

酷暑。たえまないセミの鳴き声。日本の夏が全力で日本の夏をやっている。セミの鳴き声はオスの求愛の声らしい。メスは鳴かないそうだ。つまり、メスのセミに向けた求愛の声を、オスの人類である自分が朝から晩まで聞かされているという構図なのだ。生殖プロセスとして考えれば、この出会いはまったくの不毛である。

セミの求愛の声は嫌になるほど耳にするが、セミが交尾している姿は見たことがない。不思議な気がするが、人が求愛している姿は見かけても実際に交尾している姿は見かけないようなものか(たまに深夜の公園で見かける)。

どこかで読んだ学者の言葉で、「この世界に造物主がいるならば、よほどの昆虫好きにちがいない」というものがあった。その種類も個体数も、昆虫が圧倒的であるゆえに。地球は昆虫の星なのだ。

7月22日(木)

連日の猛暑。さすがに頭髪にムカつき始めた。前回坊主にしたのは昨年十二月だ。すでに七ヶ月が過ぎている。そろそろ前髪が目に届く頃だ。何より頭皮が蒸れている。髪の中に手を突っ込むと、ムワッと指先が熱帯に行った。この頭皮に種を植えると、甘くて美味しいマンゴーが育つことだろう。

押入れからバリカンを取り出した。アタッチメントを2センチに設定して散髪した。真夏仕様の頭になった。しばらくジョリジョリと撫で回す。

7月23日(金)

「肉体にエサをやらなくては!」

空腹時、そんな感覚が生じた。意識と肉体の分離感が強烈になっている。腹を満たすため駅前に行った。三日前と同じ場所で黄土色のトカゲを見た。私が近づくと同時に草むらに消えた。このトカゲが三日前と同じトカゲなのかは分からない。それぞれのトカゲの固有性を識別する能力が私にはない。少し歩くと路上でセミが死んでいた。

夏は、トカゲとセミの季節。

それぞれのセミの固有性を発見して、感情移入が可能になった時、白い腹をさらけ出して死んでゆくアブラゼミに涙を流すことになるのだろうか。今の自分にとって、セミはすべてセミだ。その死は悲しくはない。

7月24日(土)

言うまでもなく夏。言うまでもなく猛暑。言うまでもないので今後は言わない。部屋にある地球儀を気まぐれで回した。ギュルギュルと音を出して高速回転していた。本物の地球がこんな速度で回ることはない。すさまじい速度で自転を繰り返す地球が目の前にある。太陽が切れかけの蛍光灯になったかのように、すぐさま朝晩が入れ替わる世界だ。人類、発狂しそう。

その後、グーグルマップでダブリン近辺を見た。行ったことはないが気になる都市だ。ダブリン目線で日本を見てみた。ユーラシア大陸の東端に小さな島があって、そこに住む人々が独自の文化を形成していると想像すると、なんだかワクワクしちゃうよな。

7月25日(日)

明日は編集者とオンラインの打ち合わせがある。久しぶりに人間との本格的な会話だ。緊張してきた。現在の日常はコンビニ店員との事務的なやりとりが会話の大半を占めている。誰とも話さない日々に慣れ切った。私の日常にはハローもグッバイもなく、「支払いはSuicaで」という言葉だけがある。なんだか、高度資本主義社会の申し子といった感じだ。

7月26日(月)

打ち合わせ完了。二時間ほど映像ごしに話した。後半は喉が潰れて自分の声がカスカスになっていた。使っていない器官はおとろえてゆくという当然の事実。喉がヨボヨボ。

たまに今回のようなオンライン打ち合わせがある。相手の顔が画面に映るのは普通だが、自分の顔がテレビバラエティのワイプのように画面右下に表示されることに未だに慣れない。美容院が苦手だったことを思い出した。巨大な鏡の前に座って、喋っている自分を見続けていると不安になってくる。おまえとは肉体なのだ、と突き付けられるからだろう。

鏡への恐怖心は人間に根強くあり、それゆえにホラー映画は鏡を利用する。

7月27日(火)

近所の塀にセミのぬけがらがあった。セミは自分のぬけがらを放置したままどこかに行って、恥ずかしくないのか。地中で何年も身に付けていたものに何の思い入れも持たず、たまに見に来ることもない。セミにノスタルジーはない。人間の心を持ったセミがいれば、ぬけがらを思い出の品として大事に保管しておくことだろう。

セミのぬけがらに入ろうとしてみたが、身体のサイズが合わない。

どうもセミのことを書いてしまう。鳴き声を聞き続けているからだろう。セミの求愛がうるさくて集中できない。全裸の中年男性が樹木にしがみついて「女!女!女!」と絶叫していたら、そのおっさんのことばかり考えてしまうようなものだ。「それはそれとしてアイスミルクティーを飲みながらリルケの詩集でも……」とは、なかなか思えない。

なんとなく連想して、『ムシヌユン』(都留泰作)を読み返した。流れで同作者の『ナチュン』も。作品のエネルギーに興奮して夜ふかし。

7月28日(水)

起きると昼過ぎだった。夕方、外の気温が落ち着いたタイミングでスタバへ行った。徒歩三十分ほどの場所にある。運動を兼ねている。三時間ほど滞在した。店内ではずっと本を読んでいたが、それでもカフェにいると自分も人間の一員なのだと実感される。カフェに行くことは人間の気配を吸い込むことだ。自分が人間であることを確認するためには、定期的にたくさんの人間がいる空間に身を置く必要がある。

スタバを出ると夜だった。ふたたび三十分歩いて帰宅した。汗だくになって気持ちがよかった。たまに夜のセミがギギギッと短く鳴いた。

昨日の日記を読み返したが、「女!女!女!」というのは、さすがに求愛の言葉として野蛮すぎるだろう。山賊じゃないんだから。(私のイメージする山賊は、しゃれこうべを盃に酒を飲み、炎を囲んで肉を食い、女を見つけると一切の固有性を認識せずに「女!女!女!」とさけんで踊る)

7月29日(木)

夜、酒を飲みながらネットをダラダラ。

ネコは好きだが、ネットでたまに出てくるネコ島の写真は見ていると不安になってくる。要するに大量のネコが路上をうろついている島なのだが、同種の生き物がびっしりと場を埋めている写真が不安のトリガーになるようだ。見慣れたネコの姿がゲシュタルト崩壊して、落ち着かない。

もっとも、これは一般的な感覚ではないようだ。ネコ島の光景は、ほんわかした楽園的光景としてネット空間に流通しているし。

自分が田舎の子供だったからか?

二十歳の頃、はじめて東京に行って、夜七時の渋谷駅前で人を待っていた時、大量の無関係な人間がお互いを無視したまま平然と同じ場所にみっちり存在している事実に、発狂しそうになった。

東京の人々は「これ」が平気なのか? そんな疑問を持ったが、その後、何年か東京に住むと感覚は鈍った。慣れるということなんだろう。

7月30日(金)

昨日の話の続き。

それでも新宿で酒を飲んで、中央線の終電で帰る時、車内にぎゅうぎゅうに詰め込まれた見知らぬ大量の人間と一緒にいることには最後まで慣れなかった。俺たちは同じ釜の飯を食った仲間か? 車両の全員で何かを成し遂げて、祖国に凱旋している状況でもないとありえない距離感だ。

巨大なスタジアムに数万人が集まる状況は、満員電車の密集と似ているようでいて、異なっている。観客は同一の目的のもとに集まり、同一のものに注目している。ライブならば中央の舞台を見ているし、スポーツ観戦ならば二派に分かれて、それぞれのチームを応援している。しかし渋谷駅前や週末中央線の車内では、個々の人間はそれぞれに独立して無関係に存在している。

スマホ普及以後のSNSを中心としたネット空間は、心理的には渋谷駅すら超えた人口密度だと感じる。複数の派閥に分かれてあちこちで対立しているという意味ではスタジアム的な要素もあるかもしれない。あちこちで乱闘が起きる渋谷駅といった感じだろうか。その上、24時間リアルタイムで進行して平穏がない。たぶん、SNSは人類には面白すぎるのだ。情念をふくんだ言葉が、衝突を繰り返しながら発狂している。

7月31日(土)

散歩がてら近所の神社に行った。神社に神さまがいるのかは知らないが、とりあえず巨大な樹木がある。息を吸い込むとよい匂いがする。古木の近くにいると落ち着く。この感覚は何だろう。この人と一緒にいると落ち着く、という感覚をとことん延長した最後の場所に、巨大な樹木が存在している気がする。樹木と結婚すべきか?

神社を出て散歩を継続した。脳は常に「ここはどこなのか?」を把握しようとしているようだ。世界に言葉を重ねる作業を、脳が勝手にやっている。そうして重ねた言葉だけを取り出したものが、たとえば地球儀であり、グーグルマップなのだろう。

数年前、ポケモンGOにハマッた。一ヶ月ほどポケモンを捕獲すること以外なにも考えられなくなっていた。たまに電波の状態が悪く、アプリを立ち上げても周囲のマップが読み込まれないことがあった。そんな時、レンダリングされていない灰色の画面の中に主人公がポツンと立っていた。これだこれだ、と思った。この灰色の世界だ。

「自分は日本にいる」という認識さえ、世界に言葉を重ねた結果なのだ。知覚されている外界そのものには、どんな名前も付いていない。

8月1日(日)

目が覚めると夕方だった。肉体は夜型生活に移行したようだ。人と会う予定もなく暮らしていると、生活リズムは朝型・昼型・夜型の順にゆっくりと変化していく。人間の自然なリズムは25時間で、日光を浴びることで24時間に調整されているとどこかで読んだ。自分のような生活をしていると、たしかに少しずつ起床時間は後ろにずれて一ヶ月で一周している。すなわち、朝型生活からぐるんと回って、ふたたび朝型生活に戻ってくる。

深夜三時、机に向かった。しばらく文章を書いてから視線を上げると、網戸の向こうに一匹のアブラゼミが張り付いていた。眠っているのだろうか。しばらくセミの裏側を見つめていた。

窓の外から気持ちのいい夜風が吹いてきた。どこかで風鈴の音がして、頭の中を流れる思念の行く末に私はまったく興味がなくなった。

めしを食うか本を買います