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二〇二〇

初出:『真顔日記』2020年

僕にはもう、色々なことが分からない。さみだれを漢字で書くことはできる。五月雨。これで、精一杯だ。しかし世の中は令和二年だとか言っている。知ったことじゃない。

昨日の夢を思い出そうとして、記憶と混濁して、判別が付かない。僕の知能は草むらのバッタに似てきた。僕に分かるのは、触角で感じとった世界だけだ。青空と草むらと真白の雲があれば、じゅうぶんではないか。しかし言語は残酷なほど豊かで、今日も日々、俗悪な言葉、高尚な言葉、よくある言葉、めずらしい言葉、古くからある言葉、新しくできた言葉、感情的な言葉、分析的な言葉、悲観的な言葉、楽観的な言葉、さまざまな言葉が脳に入力されてくるが、知ったことじゃない。

夕暮れの光だけを信用している。

めがねに付いた指紋は、確実に自分の指紋だ。めがねを拭くたびに考える。この指紋は自分の指紋だ。それはしかし、本当だろうか? これだけは信じられると断言できる、すがりつくことのできる真理だろうか? めがねに他人の指紋が付く可能性は、本当に絶対に、ないのだろうか?

僕は目が悪く、コンタクトレンズとめがねを使い分けている。裸眼の時、事物のすべては対象の輪郭を失い、ぼんやりした霧のような色彩として、存在している。人間の表情が、肌色のモヤに変わる。この世界は素敵だ。人の表情を読むことがなくなる。すると感情は存在しなくなる。裸眼の世界は夢のようだ。

しかし僕は社会で生きるため、器具によって視力を矯正する。人間の表情の世界に戻ってくる。そして無数の感情に突き刺され、血を流す。

裸眼の世界はしかし、無条件によいものではない。他人の感情は耳からも入る。声。これが怖ろしいものなのだ。人間の声には多量の感情がふくまれる。烏丸御池に住んでいた頃、近所の定食屋の店員のおばさんに一人、物悲しい声を出す人がいた。太い棒で叩かれた犬のような感情で、いらっしゃいませ、と言っていた。接客業の定型的な言葉が、結果的に、人の感情をむきだしにすることがある。何度も同じ言葉を繰り返していると、徐々にそれは意味を失い、鳴き声のようになるのだろう。あのいらっしゃいませは、だめだ。心臓が連動して締めつけられる。

夏、荒川の河川敷で、サワガニの死骸を見た。殺害の跡が甲羅に残されていた。甲羅の太い溝。自転車のタイヤに轢かれたようだった。荒川の河川敷では、無数の自転車乗りがスピードを競い合うように走っている。ヘルメットをかぶり、黒のナイロンで太ももを包んでいる。本格的なのだ。その中の一人が、路上に登場したカニを即座に踏み潰し、そのまま颯爽と走り抜けたのだろう。

カニは冒険に出るべきではなかった。川の中に住んでいるべきだった。半年が経過して、いまだに僕は、カニのことが忘れられない。

冬の夜、コンビニに行くための路上で、ネズミの死骸を見た。ネズミは綺麗な身体のまま死んでいた。轢かれた跡は見られなかった。毒を盛られた食べものを口にしたんだろうか。翌日の昼には死骸は消えていた。近所のおばさんが顔をしかめ、片付けたのだろう。ホウキを使って死を掃き出すことが、彼女の役目だ。死骸を見ただれかが、発狂してしまわないために。

草むらのバッタのことだけを考えて生きる。

バッタはどんなふうにして、自分の肉体を増やすんだろう。僕はバッタの生態をよく知らない。子供の頃に読んだ図鑑の内容はすべて忘れて、バッタの触覚の微妙な揺れだけを覚えている。バッタの跳躍力は、バッタの肉体を基準にすればすさまじいものだ。すさまじい高さを跳んでいやがる。しかし人間の尺度でバッタのジャンプを見れば、ほほえましい。

僕の好きなバッタは、顔の細いバッタだ。ショウリョウバッタと呼ばれている。顔の濃いバッタはだめである。目が大きすぎるし、アゴの存在感がありすぎる。ショウリョウバッタの形状は、ジャコメッティの彫刻のように何もない。

バッタの緑色のためだけに今後の人生を使うことにすれば、長生きできるのかもしれない。すくなくとも、死が身近ではなくなる。

めしを食うか本を買います