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もう漢字は書けない

初出:『真顔日記』2020年

「ほうふつ?」
「ひげみたいな字が二個並んでるんだよ」
「それはわかる。しかし、それじゃあ書けない」

友人はスマートフォンを取り出すと適当な画面に入力して見せてくれた。〈髣髴〉。ひげみたいな字であって、ひげではなかった。それは確認したが、しかし、ひげという字もまた明確には浮かんでいなかった。友人はふたたび指を動かした。〈髭〉。

これですっきりした。しかし五分後には髣髴の二文字をふたたび忘れていることだろう。最初から覚える気などないからだ。指を動かさねば、身体に染み込ませねば、漢字を書けるようにはならない。読めるようになるだけだ。

私はもう、漢字など百も書けない気がする。さすがにそれは言いすぎだろうか。しかし私にとって、もはや漢字は入力して変換するものだ。変換とは面白い表現だ。鉛筆では書くことのできない文字を平気で打ち込む快感がある。デバイスの変換機能にすべてを委ね、自分の脳は一切使わない。ちゅうちょ、もうろく、ばら。躊躇、耄碌、薔薇。鉛筆を渡されたら、ろくに書けもしないのに、即座に入力して変換できてしまう。詐欺師のような手口じゃないか。こんなものは、フォントサイズを小さくして、凝縮された黒い塊に変えてしまおう。

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私はもはや、自分の書くことができる漢字を思い出せない。コンピュータに慣れすぎた。漢字ドリルの思い出を遠く離れ、日常で鉛筆を持つことは少なく、シャープペンシルすら古代の道具のような新鮮で耳慣れない響きを持っている。親指で頭をノックして芯を出してゆくシャープペンシルの仕組み。今では、すべてが懐かしい。

昔、ロケット鉛筆と呼ばれる道具を使っていた。ネーミングが大げさじゃないか。宇宙に飛び立つわけでもないくせに、ロケットを名乗るのは誇大妄想だよ。

鉛筆けずりも長く使っていない。電動の鉛筆けずりは面白かった。はじめて買ってもらった朝、ベッドの上で飛びはねた。あれは身近なテクノロジーだった。鉛筆けずりの脇腹には、赤いスポーツカーの絵が描かれていた。おそるおそる鉛筆を挿入すると、自動で削りはじめる。鉛筆を機械に喰わせていく感覚だ。しかし短すぎる鉛筆は危険だ。自分の指まで喰われる不安がある。鉛筆を挿入すると、鉛筆けずりはぶるぶる震えた。プラスチックケースの中に次々と木屑がたまっていく。定期的にそれを捨てていた。捨てる時、もわっと木のにおいがした。道具の記憶は色あせない。

パソコンのキーボードで文字を打ちこむ行為も未来には古くなるのだろう。すでにスマートフォンで小説を書く人間も存在しているようだ。それどころか、音声入力で文を書く人間まで出てきているらしい。口述筆記じゃないか。文豪の晩年じゃないか。昭和期、病床の文豪はもはや筆を取ることがむずかしく、妻や弟子に筆記をさせた。それが現代ではスマートフォン。文章を書く人間として、他人事でもいられない。よぼよぼの自分がスマートフォンに語りかける未来が見える。あるいは、その頃には脳から直接書けるようになっているのか。思念による執筆……。

とりあえず、漢字は書くものから変換するものに変わった。今でも直筆で書くことのできる漢字はあるだろうか。犬、これは書ける。大便、これも書ける。春、これも書ける。意外と書けるものは多い。まだまだ耄碌していない。

耄碌、これはもちろん、一切書けない。

めしを食うか本を買います