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【日本100名城】 23 小田原城

概要

小田原城は、大森氏が小田原地方に進出した15世紀中ごろに初めて築かれた。
1595年に北条早雲が奪取し、以後、小田原北条氏の拠点として整備・拡張された。それまでの居城であった韮山城(伊豆)から小田原城へ本拠が移されたのは、2代目氏綱の時。
小田原城は、1561年に上杉謙信に、1569年に武田信玄に攻め込まれたが、いずれも撃退し堅城たる評価を高めた。豊臣秀吉との決戦前には、総延長9kmにも及ぶ総構えで城下町を囲み、中世最大規模の城郭であった。
秀吉の天下統一を阻む最後の壁となり、最後まで城を落とすことはできなかった。
小田原征伐(小田原城合戦)後、北条氏の領土は徳川家康に与えられ、江戸城を居城として選んだ家康は腹心大久保忠世を小田原城に置いた。以後、17世紀の中断を除いて明治時代まで大久保氏が居城した。

特徴 

最大の特徴は、豊臣軍に対抗するために街全体を取り囲んだ、5万人の兵数と50以上の支城からなる総構え(城+城下町を城塞にする)。八幡山から海側に至るまで小田原の町全体を総延長9キロメートルの*関東ローム層で構築された土塁と空堀で取り囲んだものであり、後の豊臣大坂城の構想にもなった。3代当主の北条氏康の時代には、当時最強と言われた戦国武将、武田信玄にも攻め落とされなかった難攻不落の城として知られた。

*関東ローム層:関東平野を広く覆う火山灰起源の地層群であり、富士山などの火山灰が降り積もった土のため硬くて滑る。総構えでは、関東ローム層を使用した土塀や掘を駆使し、防御壁を構築した。


写真

銅門(あかがねもん)

石垣による桝形、内仕切門および櫓門を組み合わせた「桝形門」といわれる形式で、この桝型(四角形)の中に入った敵は一も打尽一網打尽にされてしまうという仕掛け。



石垣山一夜城

1590年豊臣秀吉が北条氏を水陸15万の大群を率いて包囲し、その本陣として総石垣の城を築いたことから「石垣山」と呼ばれるようになった。この城が、世に石垣山一夜城または太閤一夜城と呼ばれるのは、秀吉が築城にあたり、山頂の林の中に塀や櫓の骨組みを造り、白紙を張って白壁のように見せかけ、一夜のうちに周囲の樹木を伐採し、それを見た小田原城中の将兵が驚き士気を失ったためと言われている。しかし、実際にはのべ4万人を動員、約80日間が費やされた。

小田原城 天守閣より


参考

北条方の拠点・城

出典:戦国時代解説


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