カレー。まぜまぜ
今夜はカレーだった。おかわりをよそいながら思い出した子どもの頃。カレーとご飯を均等に食べるのが苦手だった私は、最初に全部を混ぜてから食べるようにしていた。記憶違いでなければ、母に言われてそうしていた。ご飯の白い所はなくなるし、私はその食べ方が嫌いではなかった
父の里帰りについていったある年のことだ。その日の晩御飯はカレーで、私はいつも通り混ぜて食べていた。おじに"おめ汚ねぇ食い方すんなぁ"と笑われた。その場に居た者が私の手元を見て、笑った。母は均等に食べ進められないからと説明していたが、父は"甘えだ"とかなんだと言っていたように記憶している。父は私のことをしばしば馬鹿にしていた。今で言う所の、"マウントを取る"ことがよくあった。食事の時でも、私の魚の食べ方が汚いとか顎が弱いとか。とにかくケチをつけていた。父はその時、笑っていた。私は嘲笑を浴びせられた気がした
父の実家の人たちは決して悪人ではない。父が、私の実家の悪口を言いまくっても聞き流しいなしてくれていた。だが彼らのブラックユーモアを、生真面目な私は受け止められなかった。私は、父の里帰りについて行くのが嫌になった。父は決まって言っていた。"ばあちゃんに世話んなってんだから、年に一回くらい挨拶しに行け!"と。私も、父方の祖母は好きだった。私のことを心底可愛がってくれた。"〇〇、こればっちゃからな。お母さんたちには内緒だかんな。好きなもの買えな。ほれ、早くしまっちまえ。な!"と、こっそりお小遣いをくれたり。"〇〇、これ好きか?け(食べな)"とお茶やお菓子を出してくれたり。忙しない人だったので遊んでくれることはなかったが、冬はいつも誰よりも早起きし、ストーブに薪をくべ、掘りごたつに炭を入れ温めてくれた。私たちが泊まる客間と掘りごたつの部屋は隣同士だったから、ゴソゴソ音がすると目が覚めた。朝の弱い私は、早朝の4時だとか5時だとかに起きることはまずなかったが、ばあちゃんが起きているのは知っていたから早くに起き出した。"〇〇、はぇな。うるさかったか?まだ寝てろ~" "今こたつに炭入れたかんな" "〇〇あったけぇか?火傷すんな" "今お茶入れてやっかんな" この人はどれだけ喋るんだ…笑 なんて思いながら うとうとしているのが幸せだった。ばあちゃんは朝ふもとまで新聞を取りに行き、野良仕事に出るのがルーチンだった。日中はほとんど居ないから私はその間、誰とも関わりたくなくてゲームばかりしていた。ゲームボーイと揶揄され、笑われた。だけど、私が会いたかったのは ばあちゃんだけだったからどうでも良かった
晩年のばあちゃんは認知症を患っていたらしい。"らしい" そう。私は、晩年の祖母には会いに行かなかった。父が嫌いで。人が嫌いで。祖母に会いに行くどころではなかった。父によれば、とても穏やかな最期だったと。少しだけ、後悔している。あれだけ可愛がってくれたのに。私は会いに行かなかった。きっと可愛がっていたのは私だけではない。そう言い訳をして。心の奥にしまいこんでいる。ばあちゃんは、私を一度だって馬鹿にしなかった。よく遊んでくれた、大好きだった隣のおばあちゃんと。父方の祖母だけが。私を一度も馬鹿にしなかった。私の中に人間の部分が育っているのはその人たちのお陰だ。二人とも死んでしまったけれど、感謝している。今でも。心から。ありがとう
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