「恐怖ショー」 一話

 とある時代のとある国。一軒のバーで、酒に酔った四人の青年が、世界の七不思議について顔を合わせて話し込んでいた。彼らの口から語られるのは、どこかで聞いたことがあるような子供騙しのチープな物ばかりだった。だが、酒の肴にはそれが丁度良かったのだろう。彼らは深夜まで話に花を咲かせていた。そのうち、一人がこんなことを尋ねた。
「世の中には俺たちの知らない物がまだ沢山ある。今から俺が、誰も知らないとっておきの話をしよう。その前に尋ねておかなければならないことがあるんだが、お前らは何が怖い?」
「そうだな、サソリがどうしても苦手だ」
「俺は海だな、特に夜の海が怖い」
「俺は暗い場所が子供の頃から怖くて仕方ないんだ。おい、笑うなよ」
他の三人は何の躊躇いもなく、口々に自らが恐怖を覚える事象を挙げた。その声が止むのを待ってから、男はゆっくりと、そして静かに語りだした。その内容に、他の三人は酒に手をつけることも忘れ、彼の話に聞き入った。
 彼が話すところによると、密かに世界各地を渡り歩いている、闇のサーカス団があるという。それは決まって深夜、予告もなしに開演される。観客は、裏ルートで流通している開演スケジュールを所持した富豪ばかりで、毎回満員らしい。当然、演目は綱渡りや空中ブランコなどという通常の見世物とは異なっている。そのサーカスの団員は皆、極度の恐怖症を患っている少年少女たちなのだ。
例えば閉所恐怖症の団員は、狭く暗い箱の中に押し込まれ、ステージの中央で放置される。そいつは一分もしないうちに半狂乱になり、拳の骨が砕けるほどの勢いで箱の内側を必死に殴打し、泣き叫ぶ。しばらくすると数人のアシスタントが現れ、箱の上方と左右の三面を押し縮める。箱はみるみる小さくなり、中の面積は狭くなっていく。内側から押し広げられない構造になっている特殊な箱の中で、閉所恐怖症のそいつは喉が裂けるのもお構いなしに叫び続けるが、あるタイミングでその絶叫がピタリと止む。アシスタントが箱の鍵を開け、血の泡を吹いて白目を剝くそいつを引きずり出したところで、観客たちの歓声と拍手喝采が飛び交う――。
そんなむごたらしいショーの数々が催されているらしい。当然、そんなことを続けている団員たちの精神的負担は筆舌に尽くしがたく、ある者はノイローゼになり自殺、ある者は過度のストレスにより発狂する。しかしこの場合、死んだり壊れてしまった方がマシかもしれない。そう思わせるだけの恐ろしさが、このサーカスにはある。そうして団員が少なくなると、またどこからか恐怖症の子供を補充して、サーカスは世界を転々とするという。今もどこかで、そのショーが開演しているかもしれない。
 数分前までの喧騒が嘘のように、酒の席は静まり返っていた。話し終えた男は「あくまで七不思議だから、信じ過ぎるなよ」と言った後、黙ったままの三人を一瞥し「ただ……」と付け加えてから、酒をあおった。
「ただ、話す前に俺がした質問と同じことを知らない誰かに訊かれたら、絶対に答えるなよ」
 三人は「お前らは、何が怖い?」という彼の質問を脳内で反芻しながら、頷くことしか出来なかった。


「また血尿だ」
 茶色い塊が無数にこびりついた汚い便器が、今しがた自分の出した液体によって真紅に染まり、より直視しがたいものへと変貌を遂げた。俺は苦笑しながら、真っ白い髪が生えた頭をかいた。悪臭のこもる簡易トイレを後にして、赤と白の縞模様に彩られた小さなテントへ戻る。出入口の薄い幕を開けると、身長一九〇センチはあろうかという大男が近づいて来て、耳元で囁いた。
「おいフォール、お前が便所に行ってる間に、今日の出演者が決まったぞ」
 その心底安堵したような声色から察して、俺は大男と同じように小声で応える。
「あんまり嬉しそうにするなよリック。ここの団員は皆仲間なんだから、自分可愛さは表に出すな。出演者には同情してやれ」
「そうか、わかった」
「で、今日は誰が出ることになったんだ?」
 リックは途端に眉をひそめ、いかにも悲哀に満ちたような表情を作った。俺の肩に手を置き、先ほどとは打って変わって、わざとらしく絞り出すような声色で言った。
「ペンと、スミシーと、お前だ」
「最悪だ……」
 恐怖症患者を見世物にして世界を回る闇サーカス――俺はそのサーカスの団員だった。
 今俺たちが居る小さく寂れたテントは、演者の控え室のような場所だ。かろうじて雨風がしのげるだけの、毛布も椅子もない伽藍堂で、今夜も支配人の口から出演者が告げられた。団員たちはさながら、死刑執行を待つ囚人のようだ。
 観客が入る、つまり俺たちが見世物になるメインのテントはすぐ隣に設置されている。こっそり顔を出して外の様子を伺うと、不気味な笑顔を携えたピエロが描かれたテントが闇夜にライトアップされており、その口を模った赤茶けた出入口に数人の客が飲み込まれていくのが見えた。開演まであと三十分というところだろうか……俺はテント内に戻り、団員の顔ぶれをぐるりと見渡した。十人ほどの少年少女が、心ここにあらずという面持ちで佇んでいる。十三歳から十八歳まで年齢は様々で、皆一様に力なくうなだれていた。
 さきほど俺に話しかけてきたのがリック。高身長で体格も良く、男らしさの見本のような奴だが、極度の閉所恐怖症。狭い場所に入れられたが最後、その凛々しい顔がくしゃくしゃになるまで泣き喚く姿が、毎回サーカスを盛り上げている。リックという名は、どっかの映画監督が由来だと聞いた。サーカスの演目でいつも箱、つまりキューブに詰められているから。年齢は俺より二つ上の十七歳だが、年齢差を感じさせない人懐っこさがある。一番気心の知れた仲だ。
 リック以外でとりわけ目に入るのは、やはり今日の出演者たちだ。テントの奥の方で膝を抱えてうずくまっている紅一点、スミシーと呼ばれている女はアラクノフォビア――つまり蜘蛛恐怖症だ。彼女のしなやかな腕や脚は、所々紫色に変色している。前回の公演で蜘蛛に噛まれた傷が、まだ完全に癒えてないらしい。彼女の泣き叫ぶ姿を見て興奮する金持ちの豚共を想像すると気が滅入る。例によって、彼女の名前はメキシカンレッドニータランチュラの学名に由来している。年齢は俺と同じ十五歳だったか。
「おい、あれ見てみろ……もうダメかもしれねぇな」
 ため息をつきながら声をかけてきたリックが、顎をしゃくって俺の視線を促す。その方向を見やると、枯れ枝のように瘦せ細った四肢を投げ出し、テントに背を預け座り込んでいる男がいた。先端恐怖症の団長、ペンだ。その虚ろな目と、ぽっかり開いたままの口から、一目で彼が精神に異常をきたしているとわかった。
「さっき出演を言い渡されてからずっとあの有様だ。ペンはこれで四公演連続の出演だぞ……いくら団長だからってやり過ぎだ」
 怒りと哀れみが同居し震えるリックの声を聴き、思わずペンから目を逸らす。

 ペンは良い奴だった。その日の出演者だけが褒美として貰える菓子や肉なんかを、いつも率先して他の団員に配っていた。十八歳で最年長のペンが強制的に団長に抜擢されてからは、他の団員がミスした時や、サーカスの興行が振るわなかった時の責任を「団長だから」という理由でことごとく押し付けられ、支配人から鞭で打たれるところを何度も目にした。しかし俺はペンの口から愚痴や文句を聴いたことは一度もなかった。ペンはお人好し過ぎたのだ。菓子を貰って喜ぶ団員を幸せそうに見ていた彼の目には、もう何も映っていなかった。
「……ペンは今日の出演は無理だ。誰か代わりを探さないと」
 そうは言ってみたものの、頭の中ではわかっていた。誰かの代わりに出演すれば次回の出演は免除だとか、そういった制度は一つも設けられていないこのサーカス団で、出演を交代してやるようなお人好しは当事者のペンしかいなかった。
「皮肉だよな、ペンに良くしてもらってた奴は沢山いるのに、誰もその恩を返そうとしない。皆忘れたフリをしてんのさ」
リックは「悪いけど俺もお断りだ」と付け加えて去っていった。それほどまでに、誰しもがサーカスに出演することを恐れていた。
「ペン、フォール、スミシー! そろそろ出番だ。メインテントの裏へ回れ、さっさとしろ!」
 俺たちの見張りと治療を兼ねているビルが来て声を上げる。元は小さな町の開業医だった男で、現在はアル中のくたばり損ないだ。酒のせいで常に目がすわっており、素面の人間よりも数段声が耳障りだ。機嫌を損ねると何をするかわからない彼の危うさが、団員たちを委縮させている。噂では医療ミスをやらかして失脚していたところを支配人に拾われ、ここへ来たらしい。
 スミシーがゆらりと立ち上がり、側から見ても重い足取りでテントを出ていった。
「ペンとフォールは何やってる。早く出て行かねえと殺すぞ!」
 支配人から受け取ったであろう酒の瓶を片手に喚くビルの前に立ち、俺は精一杯申し訳なさそうな表情を作って言った。
「ビル、今日はペンを休ませて、診てやってくれないか。あいつ精神的に厳しそうなんだ」
「だめだ、出演者はもう発表されて、メインテントじゃボスとお客様が待ってんだよ。てめぇが引き摺ってでもペンを連れてけ。診てやるのは今日の全演目が終わってからだ。まあ俺は精神科医じゃねぇから、心がぶっ壊れた奴に出来ることなんてほとんどねぇけどなあ!」
 下卑た笑い声を上げるビルとは対照的に、固く食いしばった奥歯が、俺の口内で鈍い音を立てた。
 呆けた表情のペンを背に担いで、メインテントの裏口へ急ぐ。さっきからずっと歯を食いしばっているのは、ペンが重いからじゃない。むしろペンは、自分より三歳上の男とは思えないほど軽かった。そのペンの軽さも、何もかもが悔しかった。
 僅か十五歳にしてストレスで真っ白になった髪。劣悪な環境で死ぬまで見世物にされる毎日。自分が持つ高所恐怖症という疾患。そんな俺にフォールなんていうふざけた名前をつけ、金儲けするクソ野郎。それを面白がって金を落とす観客の豚共。何もかもが悔しかった。
「ごめんな、ペン」
 俺は涙を流しながら、この世の地獄へと歩を進めた。
 裏口からメインテントの中へ入り、傍にペンを座らせた。ここは、いうなれば舞台袖の役割を担っている場所だ。カーテンを一枚隔てた向こうにはステージが広がっており、満員の観客席からは雑然とした声が聴こえてきている。
「ペンは大丈夫なの」
 不意に抑揚のない声がして振り返ると、そこにはスミシーがいた。
「正直あまり良くない。このまま出したらまずいことになるのは確かだけど、もうどうにも出来ない」
 俺の言葉にスミシーは「そう」とだけ呟いて、ステージの方へ向き直った。それと同時に、世界一聴きたくない不愉快な声がステージの方から響いてきた。
「レディース&ジェントルメン、ようこそ我がサーカス団へお越しくださいました! 物好きな皆さんご存知の通り、我がサーカス団はそこらのサーカスとはちょっと違うパフォーマンスをご覧に入れますよ! 玉乗り、火の輪くぐり、ジャグリング……そんなものでは満足できない皆様がご覧になるのは、世にも珍しい恐怖・ショウでございます!」
 客に媚びるようにして開演の合図を告げる口上を垂れているのは、支配人のダグラスだ。その声に反応して、俺の足元に座っていたペンの身体が一度だけビクリと動いたが、またすぐに動かなくなった。
 ダグラスは観客たちを品定めするように見渡し、鞭を持つ右手で口髭をひと撫でしてから、再びまくし立てた。
「さて今夜お見せするショウのトップを飾るのは我がサーカス団の紅一点! その美貌で猛毒蜘蛛すら手懐ける希代の蟲娘! 今夜は三百匹の蜘蛛ちゃんたちと戯れて頂きましょう! アラクノフォビアの蜘蛛女! スミシー!」
 客席にいる何人かの男が歓声を上げる。恐らく過去にスミシーを観たリピーターだろう。下衆野郎共が。
 カーテンが開くと同時に、眩い光が飛び込んで来て目が眩む。ホワイトアウトした視界に微かに見えるスミシーが、振り返ってこう言った。
「もしも私がペンのようになったら、その時は殺して」

 その後見た光景は、忘れたくても忘れられない。
 布面積の狭い衣装を着て、遠目からでも震えているのがわかるスミシーの華奢な身体。運ばれてきた二つの大きな箱のうち、透明な方に彼女はすっぽり収まった。暗幕がかけられ、中が見えない方の箱からは、無数の節足動物が蠢く音が聴こえる。二つの箱が連結し、仕切りが外された刹那、俺と同い年の少女から出たとは到底思えない悲鳴が上がり、俺は無意識に目を逸らした。再び視線を戻す頃には、箱から這い出てきた大小様々な蜘蛛の群れが波となり、既に彼女の爪先から太腿辺りまでを黒く染め上げていた。更に激しさを増す絶叫は、あるタイミングで突如くぐもった。蜘蛛が口腔内にまで侵入したのだ。箱の中でもがき苦しみ、嘔吐し、暴れるスミシーの腕や背中で押し潰された蜘蛛から飛び出した緑色の液体が、透明の箱の四面をみるみる汚していく。刺激され怒り狂った一際巨大な蜘蛛が、派手な色の体毛を逆立て、彼女の腹部に太い牙を立てた。紫色に変色し始めた腰辺りの筋肉を一瞬ビクンと跳ね上げた彼女は、箱の中に黄土色の水溜まりを作り、それっきり動かなくなった。興奮に沸き立つ観客の中には、拍手をしている者や、自慰に耽っている者もいる。奴らにもスミシーと同じ年頃の娘がいるかもしれないと思うと、心底吐き気がした。
 吐瀉物、尿、そして蜘蛛たちの体液に塗れた、元は透明だった箱がこちらに運ばれてくる。筆舌に尽くしがたい悪臭に思わず顔をそむけると、ビルの姿が目に入った。ビルはまだスミシーが中にいるにもかかわらず、殺虫剤を箱に向かって噴射した。すると文字通り蜘蛛の子を散らすように、奴らは俺の足下を縫うようにして、ぞろぞろと逃げていった。バケツに入れられた水をかけられ、激しく咳き込みながら意識を取り戻したスミシーの口から、赤と黒の毛が生えた蜘蛛の足が数本吐き出された。ビルに抱え上げられ、控えテントへ連れて行かれる彼女が、一度俺の方を見た気がした。生気を失いどろりとしたその目は、未だ傍で動かないペンのものとよく似ていた。

 カーテンの隙間から見えるステージへ視線を戻すと、ダグラスが中央へ戻り、次の演目を紹介するところだった。
「さあ皆様、お楽しみはまだまだこれからです! 美女と蜘蛛の戯れに続き、満を持してこの場を盛り上げてくれるのは、我がサーカス団の団長でございます! 大の男が鉛筆一本で泣き喚く姿を見たいなら彼を呼ぶほかありません! 先端恐怖症の優男! ペン!」
 ペンは壁にもたれたまま動かない。五秒、十秒、十五秒……彼の入場を待っていた観客たちがざわつき始めた。ダグラスはというと、別段動揺した様子もなく、観客に向かって話す。
「申し訳ありません、ペンはシャイな男でして、今日のお客様方は美男美女が多くいらっしゃるため、いささか緊張してるようです、少々お待ちください」
 笑顔でこちらに向かってきたダグラスは、客席から表情が見えない位置に到達した瞬間、鬼の形相に変わった。カーテンを開け、俺とペンを見やってから、先刻まで観客に向けておどけていたとは思えない、低く殺意のこもった声で囁いた。
「俺のサーカスのスケジュールを乱すとは良い度胸してるじゃねえか。なあペン、聞いてるのか? てめぇは後で半殺しにしてやるからな」
 その言葉に呼応するように、突然ペンが立ち上がり、弾かれたようにテントの外へ走り去って行った。ダグラスは慌てる素振りも見せず、むしろペンの逃走を喜ぶかのような表情で、ビルと繋がる無線機に向かって話し始めた。
「聴こえるかビル、ペンの野郎が逃げたぞ。控えテントにいるガキ共を五人ほど連れて探しに行け」
 ビルの返事を聴いてから無線機を切り、ダグラスは俺の方へ振り向いた。常人には到底出来ない異様な目つきに、身が凍った。
「フォール、てめぇはペンの尻拭いをしろ。ステージに上がったら俺の言う通りに動け。返事はイエスだけだ」
 ステージに戻ったダグラスが、ペンの演目中止の旨を告げている。客席からのブーイングや「お詫びにこれから特別なパフォーマンスをお見せします。お客様方を必ず満足させます」という奴の声が、ゆっくりとした重低音となり、脳に直接響いてくる。ペンに恨みはなかった。今俺の中にあるのは、ダグラスに命令されることへの恐怖だけだった。俺はこれから何をさせられるのか。蜘蛛の群れに呑まれるスミシーの無惨な姿がフラッシュバックし、卒倒しそうになるのを必死で堪えた。

 ダグラスが間伸びした声で口上を述べる。俺の記憶をこれみよがしに、えぐり出すように──。
「気を取り直して、今夜のトリを飾るのは我がサーカス団の花形! 白髪の美少年が足をすくませ目をくらませ、転落していく様をご覧あれ! 母子相伝の高所恐怖症! 二代目フォール!」

 この闇サーカスの団員は、支配人がとある孤児院から引き取った子供たちで構成されている。両親が死んだか、または捨てられたか、それとももっと別の事情か――。理由はともかく、身寄りのなくなった子供はその孤児院に預けられる。柔和な笑顔を浮かべた院長は、子供たちの成長を逐一記録することで有名な、町で評判の院長だ。
 一年ほど生活を共にすれば、子供たちひとりひとりの特徴も大体わかってくる。そのうち、特定の事象を異常に怖がる子供が数人あぶり出されると、院長は秘密裏にダグラスの元へ連絡を入れる。孤児院を訪れたダグラスはその子供たちを一人ずつ呼び出し、更に精査する。各々が恐怖を抱いている事象をわざと目の前でちらつかせ、一番大きな悲鳴を上げた子供を数枚の金貨で買い取り、新たな名前を与え、サーカスの団員にする。こうして作り上げられたのが、この闇サーカスだった。
 しかし俺だけは違った。俺に孤児院で暮らした記憶はなく、物心つく以前からずっと、寂れたテント内での生活だけがあった。なぜなら俺の母親もまた、このサーカスの団員だったから。
 先代のフォール――名も知らぬ俺の母親は、俺が幼い頃に事故で死んだとダグラスから聞かされていた。ある日、俺が高所を怖がった時、ダグラスは笑って言った。
「お前もあの女と同じだな」
 その日から俺はフォールと呼ばれた。俺の高所恐怖症は、母親譲りの疾患だったのだ。あの時ダグラスが見せた邪悪な笑みの正体は、親と子の二代に渡って見世物としての運命を背負わせる愉悦だった。こうして奴に見出された俺は、強制的にサーカスの一員となった。

「登れ。お前の命より客の歓声の方が大事だ」
 観客に聴こえないよう、押し殺した声でダグラスが言う。俺は震える足で眼前にそびえ立つ一丁梯子に足をかける。普段なら落ちても死なない高さの六メートルに設定されている梯子が、今日は十メートルほどになり、テントの天井に限りなく近付いている。登りきった後のことを考えると、身体中から汗が吹き出す。一段、また一段と俺の身体は地面から遠ざかり、それに比例するように心臓の鼓動は速くなっていく。恐怖以外の感情はとっくになりを潜め、汗で滑る手で半狂乱になりながら次の梯子を掴む。震えのせいで何度も足を踏み外し、宙を彷徨う下半身を必死で持ち上げながら、上へ上へと登っていく。次第に、高所へ行かなければならない肉体と、それに恐怖する精神とが反発し合い、強烈な吐き気を覚える。胃から込み上げてきたものを何度も飲み込みながら十メートルを登り終わる頃には、体中の水分が汗や涙となって流れ落ちていた。梯子の頂上には、両端を繋ぐ橋のように木製の板が固定されている。俺はそこに登り、直立した。本来のサーカスならここで逆立ち等のパフォーマンスを行うのだが、ここでは命綱を付けたパフォーマンスなど茶番に過ぎない。客が求めているのは。俺が絶叫しながら転落し、十メートル下の地面に叩きつけられる姿だけだ。
「フォール! フォール! フォール! フォール!」
 小さくなった客たちが、口を揃えて俺の名を呼び、同時に俺の落下を願っている。膝が笑い、正気を保っていられない。少しでも気を抜けば今すぐにも気を失いそうだ。テントの天井に空いた穴から吹き込むぬるい風が顔を撫でる。直後、俺の肉体と精神は限界を迎え、がくんと膝が折れ、身体が前のめりに傾ぐ。一瞬の無重力を感じ、次の瞬間には地面が急速に近づいていた。観客のどよめきが妙にはっきりと聴き取れた。俺は叫びながら、空中で無理やり身体を捻った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?