【卒論ゼミ(1)】卒論には何が書いてあるのか

今日から何回かに分けて、卒業論文について考えていきたいと思います。まず第1回は、「卒論には何が書いてあるのか?」です。「なぜ卒論を書くのか?」とか、「何をどうしたら卒論が出来上がるのか?」とか、「どうやって卒論を書くことに意義を見出すのか?」とか、「社会調査ってどうやってやるのか?」とか、「社会学とか社会科学ってそもそも何なのか?」とか、「理論/仮説/概念/枠組み/方法論/質的v量的調査…って何?」とか、「そんなにたくさん文字を書くって可能なの/意味あるの?」とか、テーマは際限なく思いつきます。でもまずは、ゴールのイメージを持つことからはじめてみましょう。

ゴールのイメージを持つって、大事なのですが、実は大きな落とし穴も隠れていたりします。ゴール設定して、そこから逆算して計画を立てましょう、っていうのが、たぶん「ゴールのイメージ」からはじめる意義なのではないかと、多くの人は思うでしょう。(そう思いませんでしたか?)この「逆算思考」というやつ。ちょっと昔流行ったライフハックっぽくて、仕事のデキる奴とか、成功者の秘訣、みたいな感じがします。一番効率よく、ゴールに辿り着きたい。これは誰もが願うことだと思います。

でも、これからたくさんのテーマで卒論について考えていくとわかるように(というか、それだけたくさんのテーマを考えていかないといけないということからわかるように)、そんなに簡単な話ではないのです。単線的に、計画した通りに、寄り道せずに、真っ直ぐゴールにたどり着けるなどいうことは、100パーセントありません。必ず道は曲がりくねっているし、先が見通せないことの方が多いし、壁に当たって、引き返した方がいいのか、なんとかよじ登って向こう側を覗こうとしてみた方がいいのか、そうかと思うと、実はちょっと押したら倒れるハリボテの壁だったとか、そういうことが、よくあるのです。

だからって「逆算思考」が役に立たないということでは、これまた全くありません。むしろとても大事なのです。そう。とても大事なのです。だから、ゴールを認識するところから、やっぱりはじめたい。ポイントは、到達地点がなんとなく見えたのだが、そこに至るルートは、みなさん一人一人が、それぞれにご自身で切り拓いていかないといけない、ということなのです。ただ、大体の方向性と距離感ぐらいはわかっておきたい(距離感の方は、ちょっとトリッキーなのですが)。

例年よくあるパターンとして、この方向性と距離感を全く掴もうとせずに、進もうとする人がいます。そして、私に尋ねてくるのです。「何をしたら卒論になるのですか?」と。いや、そんなこと、手取り足取り教えてあげられません。ゼミ生全員にそんな時間は割けないとか、一人分にしても教える分量が多すぎる、という、教える側のキャパシティだけの問題ではないのです。

要するに、こういう方々は、卒論というものを大幅に(というのでも足りないぐらい)「ナメて」いるのです。どのくらいの労力と時間を投入すればよいのか。そしてそれはどういう質の労力であるべきなのか。これをまずは、「なんか知らないけど、今までやったことのない種類のことを、想像できないほど膨大な時間を投入してやらないといけないことらしいぞ」というふうに認識してもらわないといけません。

実は、私自身、なんとなく、卒論を書く皆さんの辿る道筋や作業量のだいたいのパターンというか、感触はわかっている気がしています。だから少し前までは、その最大公約数的なステップを、段階的に設定してゼミの課題にしていました。これは、一定の効果があったかもしれないです。しかし、とてもうまくいったということでもありませんでした。問題はきっと何だったかというと、みなさんがこの一つ一つの段階的課題自体を、またまた過小評価してしまうからです。これはもう、致し方のない現実だと思うしかないと、今は思っています。

だから、みなさんに、卒論を過小評価するな、とは言いません。そうではなくて、みなさんは自分が卒論を必ず過小評価しているものだ、と思ってください。そう伝えたいと思います。これはおそらく、本当に仕方がないんです。みなさんが大学に入ってからの勉強の仕方というのが、レポートを書いたり、試験を受けたりして、単位を取ったらそれでオシマイ、という形式だったからです。いいレポートだろうが、悪いレポートだろうが、単位さえ取ったら「成功」です。卒論も究極的にはそうなのですが、それにしてはステップが多すぎる。3000字とかのレポートをなんとか単位が取れるように終わらせてきた、という経験を、10倍とか15倍の分量にすれば卒論が出せるようになるのかというと、そんなこと全然ないのです。

この卒論の完成にいたるステップというのは、試験勉強とか、数千字のレポートを書くためのステップとは、かなり違う、いままでみなさんがやったことのないステップを少なからず(過小評価っぽい言い方ですが)含むと考えてください。やったことのないことをやるのだから、ゴールに至る道筋を正確に見積もれるはずなんかありませんよね。そういう状態の人に、「次は何をやったらいいですか?」と訊かれたら、「こうすると少し進むと思うよ」というsuggestionはできるんですが、それが終わって「次は何ですか?」と繰り返していても、一向にゴールに近づいた実感は持てないと思います。

じゃあ、どうやったら、そういう実感を持てるようになるんでしょうか?と訊きたいですよね。(うん。私も今、そう思いました。)そうですね…。過去に(つまりみなさんの先輩への指導で)とても効果のあった方法の一つは、やっぱり「研究論文」には何が書いてあるのか?を知ってもらうことでした。「卒論」と言ってもいいのですが、卒論は玉石混交どころか、ほとんどが石ころなんですね。だから「いい見本」とは言えないんです。申し訳ないけど、どんなにいい卒論でも、プロの研究者が書いた研究論文とは比べるべくもありません。だから、3回目ぐらいの課題に「研究論文には何が書いてあるのか」を設定しようと思っています。

じゃあ、最初からそうさせればいいのでは?と思ったかもしれません。それもまたちょっと違うかな、と思うから、「卒論」からはじめています。つまり、「研究論文」は、みなさんのゴールとしては、ちょっと遠すぎるのです。そんなにちゃんとしてなくても、卒論にはなるんです。だからある意味で、肩の力を抜いてくださってよいのです。完璧な研究論文(そんなものないですけど)を書いて欲しいのではなくて、「卒論」をなんとか形にしてほしい。それだけでも、みなさんに取ってはとても大きなacheivementです。(人によっては、これだって遠すぎて辛い!と思うような目標です。)

ただ、やっぱり、できるだけいいお手本を手に入れたい。書道の初心者は、プロの先生の字をお手本にしますよね。でも、もちろん出来上がったものは、素人のクオリティーなわけです。卒論もこれと一緒です。お手本は、プロの書いたものがいいです。でも仕上がりは、素人がなんとか頑張って仕上げました、という感じでよい。そういう距離感を、わかっていただけるといいです。(ということは、方向性の方は、プロのお手本を目指してね、ということなのですね。今わかりましたけど。うん。そうしてください!)

さて、そろそろ「何が書いてあるのか?」の方に進まないといけませんね。と言っても、「素人の力作」ですから、千差万別、ということは否めません。まずは、そのことを感じてもらいたいと思います。「あ、いろんな卒論があるんだな」、と。ゴールに辿り着いたものが多様だということは、そこに至るプロセスもそれと同じだけ多様です。つまり、先輩の真似(だけ)をしようとしても、みなさんの卒論にはなりません。これが、わかっていただきたいことの一つめです。

もう一つは、これはなかなか感じられないことかもしれませんが、先輩の書いた卒論は、完成品でしかない、ということです。どういうことかというと、卒論に書いてあること以上に、卒論に書いてないことが、膨大にあるはずなのです。そしてそういう完成品に明示的に含まれない作業なり労力なりが多いほどに、完成品のクオリティーはよくなります。実は、初期の頃の卒論には、一見卒論の筋には関係がなさそうな記述がたくさんある、ということが往々にしてあります。今回「お手本」に選んだものも、そうではありませんでしたか?

つまり、無駄かもしれない(無駄じゃないんですけど)作業や勉強、そして文字数(!)をたくさん重ねることが、卒論完成に至るために絶対に必要なことだということなのです。昨年の先輩たちには、「卒論の半分は『勉強』でいい」、というふうに伝えていましたが、これも同じ意味です。最終的に役に立つかわからないけど、とりあえず読んだ本、とか、とりあえず書いてみた文章、とか、そういうのが、案外に(そして実はとてつもなく)価値があるのです。

初期の頃の卒論と、近年の卒論では、設定していた文字数が違います。最初は「5万字」だったのですが、最近は「4万字相当」というふうに言っています。「5万字」という未知の文字数に辿り着こうとすると、自然と「無駄書き」が増えた、ということなのだと思います。近年の優秀な卒論の場合は、こういう無駄書きがあまりないように見えると思いますが、それは完成までに何度も書き直しているからです。文字数は十分、やった作業の内容も十分、体裁も一応OK、となったあと、「論文」としての質を高めるための書き直しを繰り返しています。

これが「距離感」の落とし穴です。卒論の長さ(文字数)は、実際に進む距離よりずっと短いのです。「効率よく」「無駄なく」完成した卒論なんてありません。相対的には、「比較的順調」に進んだものはあります。今回選んだお手本にも、そういうものがいくつかあります。これはでも、「うまいことやった」論文ではなくて、「愚直に、着実に」積み重ねたものであることが多いです。

さて、最後に、「ゴールに近づいた」と実感できる方法の二つ目をお伝えします。それは、後ろを振り返った時、自分の進んできた道が確かにある、ということです。方向があっていて(一つ目ですね)、実際に進んできた道がある(二つ目です)のだから、近づいているに決まっています。たぶん、この二つしか、確かな拠り所はないのではないかと思います。(他にもみつけた人は、教えてください。あとは、指導教員である私が「まだまだだよ」とか、「結構進んだね!」とか、「あともう少し!」とか、「いや、もうちょっとだけど意外と遠いよ!」とか、そういうことは伝えてあげられますけど、それは皆さん自身が距離感を掴めていることとは違いますね。)

卒論というゴールと自分の間には、いつも未知の道のりが横たわっています。だから、いつだって無限に感じられるかもしれない。でも勇気を出して進めば、必ず近づいてくるし、いつの間にか通り過ぎていた、なんてこともあったりします。そして、とても大事なことは、たどり着けなかった先輩は、一人もいない、ということです(「オマケ」した人はいますけど…)。だから私は、みなさんが絶対に卒論を書ける人たちだということを知っています。

なので、着実に積み重ねる、ということを目指して、まずは一歩ずつ、歩みを進めていきましょう。

以上が、「卒論に何が書いてあるか」をテーマにお伝えしたかったことです。(もちろん、卒論が「未熟な研究論文」である以上、それに含まれるべき「共通項」は必ずあって、それもやりたかったことなんですが、これは次回、次々回も使いながら、徐々に理解を深めていきましょう。)

次回は、また先輩の卒論を題材に「なんで卒論をやるのか?」について、考えてみましょう(一回で終わるような話じゃないんですけど)。

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