【卒論ゼミ(2)】なぜ卒論を書くのか

さて、第2回です。今回は「なぜ卒論を書くのか?」というテーマでやってみましょう。

まずは、第1回のリフレクションです。先輩が書いた卒論のうち、優秀作品を3つ読んでもらい、ディスカッションをしましたね。すでにうろ覚え(すみません…だから、書き残すことが大事なのです…)なのですが、いくつもとても大事な気づきがあったようでした。思い出しながら、列挙してみます。

  • レポートと違うのは、卒論は自分で問いを立てなければならないこと(レポートは問いを与えてもらえることが多いし、問いがなくても何か書いてあれば単位をもらえたりします)

  • その問いに答えを出すために、自分なりのデータとその分析を根拠にしないといけない(「人の言ったこと」だけで構成できない)

  • (質・量ともに)信頼できる根拠が示されている

  • 結論が「当たり前」な感じがして、意外性がない(仮説がそのまま追認されているだけのようにみえる)

  • 研究の動機に比べて、とても狭い範囲のことしか結論で言えていない

  • ちゃんと統計的な手法が使われていて、すごい

  • 分析の項目が明確に示されていているのに、結論は曖昧な感じで書いてある

  • 歴史研究、インタビュー、現地調査と、3つの手法が使われている

  • 問いに対して答えを出す部分と、それらを理解するための基礎情報の部分とがある

  • 先行研究の部分と、オリジナルな部分と、両者の中間(情報は既存文献から引いているが、その使い方がオリジナル)の部分がある

  • 体系だてられた3つの問いがあるが、最初からこんな問いが立てられるとは思えないので、事後的に設定したのでは?

印象深かったものは、こんなものでしょうか。

自分で設定した「問い」があって、それへの「答え」がある。その答えを導くために、なんらかの方法で取得/生成したデータを、然るべき方法で分析する必要がある。そうです。研究論文って、そうなっているのです。

でも、そうやって「確かに言えること」を厳密に突き詰めようとすると、「大したことが言えない」という感じがしてしまうことも、よくあります。がっかりですよね。でも不思議と、この「がっかり」を経験した卒論が、優秀作品には多いような気もしますね(厳密な根拠ないですけど…)。

だから、ほぼ全ての卒論は、最初に設定した問いよりも、ずっとスケールダウンした問いになっているものです。スケールダウンというとネガティブな感じがしますが、より緻密で焦点が絞られた問いになる、ということです。そういう問いになるまでには、かなりの時間と労力がかかります。

そしてその労力の大半は、すでに他の誰かが明らかにしてくれている情報を集めることに当てられます。(ググったら答えがわかっちゃった、なんてことも、卒論に取り組みはじめた当初にはよくあることです。)そうやって既存知識のなかに答えを求めていって、わかることとわからないことがある。わかることはそうやって潰していって、それでもわからないことを、自分なりのデータを取得/生成することで分ろうとするわけです。

難しいのは、どこまでが「既存知識」に頼った部分で、どこからが「オリジナリティ(=自分自身で生成した知識)」に当たるのか、切り分けにくいことがよくあるということです。だから、卒論にはそういう探求の過程がそのまま全部書いてあるものも、多いです。(プロの研究論文は、その辺をきっちり分けます。)

なかなか一本の筋でお話ししていくのが難しくなってきました。「問い」は紆余曲折するが、それでも「問い」への答えを探す、という形式で、ずっと卒論を作り上げる作業は続いていくのだ、と思っておいてください。

さて、そろそろ今回の話題に接続していきましょう。卒論は研究論文なので、オリジナルな「問い」に、厳密な「答え」を出すために、膨大な既存知識を掻き分けて、最終的に「大したことない」結論を絞り出す、ということらしいです。こんなにコスパの悪そうなことを、なんでやらないといけないのでしょう?

身も蓋もないですけど、まずは何はなくとも、みなさんが「大学を卒業するため」です。卒論を出して合格しないと、卒業できない。学位が取れないのです。だから、仕方なく、やる。そんなスタートで、全然構いません。

では、なぜ卒論を出さないと学位をもらえないようになっているのでしょうか? 考えてみたことがありますか? 私もあんまり考えたことがありませんでした。でもここ数年卒論の指導をするなかで、妙に合点がいってきたことがあるので、その話をさせてください。

学位をもらえるということは、その学問を修めた証です。大学を卒業したら、みなさんは、一応、その学問分野を専門的に勉強した、という証明をもらえるわけです。ということは、みなさんが勉強してきた学問について、それがどんな学問であるのか、ちゃんと理解している、ということになるわけです。

だから卒論は、そのために書くのです。なかには、卒論を書かずに卒業できる学部や学科があります。そういうところは、卒論を書かなくても、その学問がどんな学問なのかを理解することができるようになっているのです。

幸か不幸か、みなさんが所属する本学の社会学部は、そのようになっていません。卒論を書かないと、自分が専門的に勉強した学問の真髄なり要諦なりが、理解しきれないようになってます。

卒論を指導するなかで、「なんで4年間学んできたのに、社会学(ないし社会科学)の基本的な作法をこんなにもわかってないのだろうか?」と思うことが多々ありました。学部のカリキュラムがよくないのではないか?なんて、責任転嫁をしたくなったこともありました。でも多分そういうことではなくて、卒論によって漸く、知識が血肉になる、ということなのでしょう。

なんかカッコつけた言い方になっちゃいましたね。もう少し噛み砕きましょう。みなさんはこれまで、いろんな授業を受けて、いろんなトピックについて知識を得たり、いろんな学問(本学部はmulti disiplinaryなので)の思考様式に触れたりしてきたと思います。で、私のゼミを選んでくれたわけです。

みなさんの専門的学びは、ゼミを通じて行われるようになっています。ゼミを選ぶとようやく、本当に自分が修める学問を選んだことになる、というわけです。で、私は社会学を一応の核にしながら、社会科学的なアプローチで物事を考える、ということをやっています。卒論のトピックはかなり多様ですが、この「社会科学的なアプローチで物事を考える」というところは、不変です。

さまざまな授業の中でも、社会学ないし社会科学的なものの考え方とか、それによって生み出された知識に触れてきたことと思います。でも、自ら「社会学/社会科学的な知識」を生み出す、ということはまだほとんどやったことがないと思います。

それをやるのが卒論です。それってどういうこと?というのは、今回の1回分ではちょっとtoo muchな内容ですので、また次回以降に、徐々に考えていきましょう。触りだけお話しすると、こんな感じです。

「社会」というのは、あるのかないのか本当はよくわからないものなのですが、私たちは一応、あるものとして考えています。社会的な現実というのは、全部、多くの人が「あると信じる」ということによって、実際にあるかのようにみえるようになってます。「人種」とか「学校」とか「橋」とか「社会的排除」とか、全部そうです。

卒論でやるのも、こうした「あるかないかわからない」ようなことの「実態」をどう掴むか、という作業です。「実態」が掴めないと、「問い」も「答え」も成り立ちません。それをなんとかやってみよう、というわけです。無理難題のようですが、一定の作法に則れば、「確かにそれはそういう実態があると考えていいだろう」という合意が取れるくらいに持っていくことは、さほど難しいことではありません。(だから心配しないでください。)

世の中の知識というのも、実はこういう危うい足下の上に成り立っているのですが、皆が「ある」と信じれば実際に「実態」を持つことになり、その時代に生きる人々に大きな影響を及ぼすことにもなります。世の中のほとんどの人は、こうした力学に無頓着です。その結果、無意識に現状を追認することになりがちです。

そんななか、卒論を書くことを通過したみなさんは、「(社会科学的)知識の危うさ」を知ることになります。それは逆に、知識を丁寧に生み出すことの大切さを知ることでもあってほしいと思います。大袈裟にいえば、みなさんは社会科学的な知識の生み出し方を知ることで、社会を変革する力を手に入れるのです。

最後は少し、論理が飛躍してしまったかもしれません。この結論が荒唐無稽な仮説なのか、それともそれなりの「実態」を伴ったものなのか、これから明らかになっていくことでしょう。

第3回は「研究論文には何が書いてあるのか」をテーマに、社会科学的な知を生み出す作法について、もう少し詳しくみていくことにしましょう。

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