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冷笑系への批判

冷笑系ってダサいと思います。

そもそも冷笑主義とは

他人の動機に対する一般的な不信感を特徴とする態度のことである。 冷笑主義はシニシズム、皮肉屋、犬儒派、冷笑系とも呼ばれる。

冷笑主義 Wikipedia

であるが、日本のネット上で蔓延る冷笑系はそれとは一線を画すと考える。
何故なら彼らに上記のような哲学は感じられないからだ。何事にも斜に構え、対立構造にどっちもどっちと判定している。また自身を現実主義者だと捉えており、どちらかというと体制寄りの考えをしているのが当てはまる。
これらの冷笑系について考察する。

露悪趣味

『「歴史の終わり」と世紀末の世界』(1994年)にて浅田彰氏が夏目漱石著の三四郎に触れ、偽善と露悪についてこう述べている。

善をめざすことをやめた情けない姿をみんなで共有しあって安心する。日本にはそういう露悪趣味的な共同体のつくり方が伝統的にあり、たぶんそれはマス・メディアによって煽られ強力に再構築されていると思います。

『「歴史の終わり」と世紀末の世界』(1994年)

日本における冷笑系とはまさにこのことではないかと考える。
またこのようなことも述べている。

日本人はホンネとタテマエの二重構造だと言うけれども、実際のところは二重ではない。タテマエはすぐ捨てられるんだから、ほとんどホンネ一重構造なんです。逆に、世界的には実は二重構造で偽善的にやっている。それが歴史のなかで言葉をもって行動するということでしょう。

『「歴史の終わり」と世紀末の世界』(1994年)

ネットというのは基本的にホンネが出る所である。特に匿名の場や本名とは別にハンドルネームを使う場ではタテマエなど必要がないため、ホンネが出やすくなるのだ。
日本人が本質的に露悪趣味であれば、きっとネット社会でそれが色濃く出て、ネットから現実社会へと浸食しているのではないかと考える。

冷笑系の魅力

冷笑系であるが、魅力もある。
まず何も考えなくていい。
次に第三者視点で自身が優位に立ったと錯覚することができる。
またリテラシーの低い者はそれを見て冷笑系に憧れる。

馬鹿が馬鹿を生む構造である。

冷笑系の分析

冷笑系の思考であるが、
まず絶対的な正義は存在しないという思考が挙げられるであろう。
だから主張に対してはその人が正義とする主張すること自体を嘲笑うことが出来る。
だが、ここに冷笑系の論理的矛盾がある。
絶対的正義が存在しないという絶対的正義を彼らは抱えているのである。
彼らはここに気づいていない。
また彼らは極論に走っていることもわかる。
絶対的正義はないから、すべての正義は紛い物という極論である。
ここからも論理的思考がお粗末としか言いようがない。

また彼らは対立する正義も嘲笑する。
その際彼らはどっちもどっちと言うが、
これはどちらにも言い分がありどちらも間違いがあるから。
と両者を均質化して考えるからだと考える。
つまり彼らは自身で妥当な価値基準、判断能力を持たないことの証左であり、幼いということに違いはないのである。

あと彼らは現実主義者を自認することが多いが、これも妥当な価値基準、判断能力を持たないことが一因と考える。
現実を追認することで、自身が正しいと思い込みたいだけかもしれない。そのため現実で力を持つ権威に弱く、理由付けにも権威を頼ることが多い。何故なら何か主張する際、主張の根拠を権威から導き出した方が楽だからだ。日本における冷笑系が権力寄りの発言が多いのはそのためかもしれない。

最後に

正しい判断能力で嘲笑するのは百歩譲って許すが、そうでないのであれば百害あって一利もないであろう。
特に頑張っている人や被害にあい抗議する人などを嘲笑するのは醜悪としか言いようがない。

冷笑系が少しでも減り、日本人が少しでも善に向き合い、目指すことを願っている。






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