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自分のまどろっこしさを受け入れられるようになってきたよという話 by おしお

 めちゃくちゃ突然なのだけど、私は言語化がとても下手くそである。「聞いて書くこと」を仕事にしていて、誰かと会話したり、文章をまとめたりすることが日常茶飯であるにも関わらず。

 面白い映画や本に出会って、その感動を誰かに共有したいと思っても、全然うまくいかない。あらすじを頭からなぞるばかりで、自分の心がどこでどう動いたのか、いつまでも言葉にならない。相手が優しく待ってくれているにも関わらず、勝手に焦ってしまい、だいたいは「よかった!」、「おもしろかった!」のどちらかに着地する。「どんなところが?」「なんで?」などと問われると最後、「あ~〜、うう、え~」と音をもらし、全てを諦め宙を見上げてにっこり笑うだけのお地蔵さんになってしまう。ちーん。内心はずっと「そうだよねそうだよね、何が良かったかを知りたいよね、私もそれを言いたいのよ」とはがゆく思っている。

 私を知っている友人の中には、そんな大げさな、もしくは、意外だな、と思う人がいるかもしれない。それは多分、表面のつるつるしたそれっぽい言葉をなんとかつなげることで、体裁を取り繕えているのだろう。「今日はこの話をする」と決めているときは、実感が伴っているかどうかは別として、感想を練りまとめ、それをなぞりながら口に出している感覚がある。よどみなく会話が進むことで気持ちは楽かもしれないが、はて、私は本当にそう思ってんのか?とモヤるし、なんだか後ろめたい。

日常会話ですらそんな風だから、堅苦しいオフィシャルな場面ではもっとぎくしゃくする。ここ3カ月ほど、初対面の人と意見交換したり、大勢の参加する会議で発言を求められたりする機会が何度もあった。緊張でいつも以上に口元がゆがみ、自分が何を言っているのか分からない。その日の情けない姿を布団の中で思い出す度に、うっすらと感じていた苦手意識が遠くからずんずんとやってきて(イメージとしては、将棋の駒みたいな強そうなやつに二本足が生えている)、しまいには、ぎゅんと一気に目の先5センチくらいの所まで距離を詰めてくる。「これはちょっとしんどいかも」と感じていたときに、本屋である本を手に取った。

尹雄大(ユン・ウンデ)さんの『句点。に気をつけろ 「自分の言葉」を見失ったあなたへ』だ。インタビュアーとして他者の語りに向き合ってきた筆者が、「上手に話せない」をどのように理解すべきか提案してくれている。

冒頭、分かりやすく話せないことで「自分はだめだ。」と結論付けることは、自分の可能性を句点で閉ざして生真面目になめらかに自己否定を行っているのと同じだ、という指摘があった。ほんとそうだな、と、はっとした。理路整然としたコミュニケーションが良いとされる社会の風向きを感じ、「ちゃんと話さないと」と強迫的に思っていたのだ。今の自分が救われる内容だな、と感じて一気に読んだ。

今も、上手に伝えたい気持ちは無くなっていないけれど、言い切らない句点の先にあることこそ現実じゃん、まとまらない話し方でも大丈夫だと、今の自分を受け入れる姿勢が整ってきた。同時にそれは、「あなたの言っていることを受け取りたいよ」と、自分と同じように他者を引き受ける準備でもあると思う。

先月、うだつのあがる古本市のインスタライブでも、この本を紹介した。相変わらずぼんやりしてまとまりがない感想を語ってしまったけど、それでも普段よりリラックスしていた。下手くそでもよいのだ。私は私の言葉で話す。あなたもあなたの言葉を貫いてね。(おしお)

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