森山大道 2001 インタビュー

月刊森山大道 作家生活を語る

泣き虫だった少年時代

 僕は1938(昭和13)年10月10日、大阪府池田町(現・池田市)に生まれました。父は島根県石見の出身で、母は東京・日本橋の呉服店の娘。父は生命保険会社の会社員だったから、転勤のため各地を転々としていた。兄弟は姉と弟がひとり。子どもの頃の僕は泣き虫で、ぼんやりした子どもだった。今の僕からは想像できないでしょうけど、病弱でね。双子で生まれた兄は僕が物心つく前に亡くなった。2歳から3年間、島根にある父の実家に預けられ、祖父母に育てられたんです。その頃の記憶は断片的にあります。僕の意識の中では、実際の故郷ではないけれど、島根の村にはノスタルジーがあって、風景や風土が濃厚に染み着いている。後年、「遠野」をテーマにしたのも、僕にしては希な選択だけど、きっとそこに根があったのでしょう。
 父の仕事の都合で全国を転々として、友だちができる前に次の町へという感じだったから、あまり友だちを作らなくなるんですよね。子どもの頃の記憶は、引っ越しの準備ばかり。僕はすぐメソメソするほうだから、二つ上の姉のうしろを追っかけ回して、姉の友だちにまじって遊んでいた。

転校の末に高校中退
デザイン事務所に就職

 進学した私立平安高校は生徒はお坊さんの師弟が多く、甲子園で決勝に残るくらい野球でも有名だった。僕はお坊さんも野球のどちらにも興味がなかったから、半年で中退してしまい、将来を心配した父は、大阪工芸高校に編入させた。それでも、あいかわらず勉強をしなかったし、学校が大阪の阿倍野の繁華街にあったから、そっちで遊ぶほうが面白くて。あまり学校に行かないものだから、二部(夜間)に移り……何だか、自分がいかに落ちこぼれかを延々話しているみたいだけど、実際落ちこぼれだったから仕方ない。まあ、二部に移っても同じですよね。結局中退して進学をあきらめ、父は自分の会社の仕事を頼んでいたデザイナーに僕を預けたんです。ですから、学校に行くのもデザイン事務所に行くのも本当は僕の意志ではなかった。ただ、子どもの頃から絵を描くことは好きだった。父は大手保険会社の重役になる一歩手前で、僕が十九歳の時に他界しましたが、自分の子どもに学歴を押しつけるようなところはありませんでしたね。僕も言うことを聞かなかったこともありますが、父も本当はジャーナリストになりたかったと常々言っていたし、会社から帰れば俳句を作ったり彫刻を彫ったり、文化やものを作ることに理解があった。
 デザイン事務所には2年半くらいいたかな。でも勝手なときに出勤して、適当に仕事をしてと、勤務態度は悪かった。当時は写植がなく、活字のレタリングをしていたから、今でもこれは得意ですよ。デザイン事務所に勤めているとき、事務所を紹介した父が亡くなってしまったため、辞めてフリーになることにした。そのあとしばらくは父の会社が僕に仕事をくれたんです。そのうち、デザインにも写真が取り入れられるようになって、岩宮武二さんのスタジオにも写真をもらいに行くこともあり、それがきっかけで岩宮フォトスに出入りするようになったんです。

岩宮武二スタジオへ

 当時、岩宮先生は42、3歳で現役絶好調の頃。最初は心斎橋にスタジオがあって、当時は僕を入れて8人のアシスタントがいました。岩宮先生のスタジオにはいろいろな人が出入りして、いつもにぎやかだった。
 岩宮フォトスに入ってまもなく、アシスタント仲間からキヤノンのⅣSbというカメラを安く譲ってもらって、それを持ってうろうろしていた。岩宮さんのところには1年くらいいたけど、先輩アシスタントや専門の暗室マンが仕事をこなしていたから、技術的なことはあまり身につけられませんでした。見よう見まねで、自分の写真を暗室でプリントしていた程度。だから、後に細江英公さんのアシスタントになるとき「何でもできます」と言ったのは実は嘘。
 岩宮さんは面倒見のいいこともあって、事務所にはたくさんの写真家が出入りしていて、東京から来た有名な写真家たちも、ほとんどあいさつに顔を出していたんです。東京の写真家の臭いをぷんぷんさせながら。岩宮さんは、よく写真雑誌を僕らに見せては「東京では東松照明や、細江英公が頑張っている、お前たちもぼんやりしてるな」とハッパをかけてくれた。先輩アシスタントたちはあまり反応を示さなかったけれど、僕は一番若いということと、あまり写真の仕事に染まっていなかったこともあり、東京の写真家たちにものすごく刺激を感じたんですね。それと、正直言って若い頃は大阪の町があまり好きではなかった。今では好きな町ですけど、当時は一度東京の文化にあこがれると、なんて大阪って泥臭いんだろうと感じていたんです。僕の両親は大阪生まれではないから、家の中の会話も標準語。転勤で千葉や東京も知っているから、東京には、言葉も含めて洗練された印象があった。だんだん「東京に出ないとだめかなー」と考えるようになりました。

VIVOの助手として上京するが
すでに解散していた……

 21歳の時、VIVO(※写真家たちによるセルフエージェンシー。メンバーには細江英公、東松照明、奈良原一高、川田喜久治、佐藤明、丹野章)を頼って上京したんですが、ちょうど解散した時だったんです。岩宮さんは僕のことをずいぶん可愛がってくれたし、作品を撮るときにも何度か僕を連れていってくれた。僕がたった1年で助手を辞め、東京に行くことに最初は反対されたけれど、最終的にはVIVO宛に紹介状を書いてくれた。その紹介状を大事に持って築地の事務所に行ったんです。ところが「VIVOは解散したから、もう助手はいらない」と言われて。東松さんなんて冷たいもので、「大阪に帰るんだね」と一言。でも、細江さんだけは優しかった。なんとか東京に残るために必死だった僕の話を聞いてくれた。細江さんは、岩宮さんの紹介もあるし、自分もいずれは事務所を持つので、うちへ来なさいと僕を拾ってくれた。VIVOは解散したばかりでメンバーはすぐに事務所を持たなかったので、新たに麹町の共同事務所を借りて、僕はそこに電話番として常駐した。細江さんは忙しい人で、あちこち飛び回っていたけれど、ほとんど仕事をしていなかった東松さんだけが朝、律儀に事務所に出勤して夜までいる。その間いろいろな話をしたり、コイコイを教えてもらったり。1年くらい後、細江さんが新宿の本塩町に事務所をかまえると、僕はそこで寝泊まりできるようになった。

細江英公氏の助手時代

 昼間、細江さんが撮影したものを夜、現像して、神田のアミーというバーで飲んでいる細江さんにコンタクトを持っていって選んでもらい、事務所に戻って引き伸ばす、という生活。とにかく忙しかった。細江さんの助手は僕ひとりだけ。三島由紀夫さんをモデルにした「薔薇刑」の撮影も、僕は最初から最後まで立ち会った。三島さんは、僕が着ていたパステルカラーのセーターをえらく気に入って、譲ってくれと子どもみたいにねだるんです。でもそのセーターは3万円も出して神戸で買った、僕にとっては宝物。カメラより高かった。贅沢好きな三島さんは、すぐ分かったんでしょうね。後に三島さんが亡くなったと聞いたとき「あのとき、譲ってあげればよかったかな」なんて思いましたけど、あとの祭りでしたね。そのセーターもどこかへいってしまったし。今はモノトーンの服を着ることが多いけれど、昔はよく原色の服を着ていてみんなに笑われていましたね。大阪から上京したときなんて、川田さんに「通天閣のおアニイさん」と呼ばれた。芸能人しか着ないような真っ赤なポロシャツ着たり。60年代の頃はまだ若かった。
 今でこそこんなにおしゃべりですけど、細江さんの助手時代は本当に人と話すのが苦痛だった。「森山君、少しはしゃべってくれよ」とよく言われましたね。孤独を気取ったり、孤独癖があったわけではないのですが、ひとりの時間が好きだった。スタジオで撮影が終わると、助手は「オツカレサン」と大声で言わなきゃいけないのだけれど、僕はほとんどまともに言えなかった。

心は「東松」、技術は「細江」

 助手の仕事が忙しすぎて自分の写真を撮りにゆけなかったのも事実だけれど、仕事それ自体が面白かったということもありますね。自分の写真をどうしようなんて考えなかった。ある時、細江さんが「森山君、何か自分で撮りたいものはないの? 取材費を出すから、写真を撮ってきたら」と2万円出してくれた。でも何を撮っていいか分からないし意欲もない。最近、細江さんと酒を飲んでその話になった時、「いや、そのとき渡したのは3万円だった」って言うけど、貰ったほうが覚えているから、あれは確かに2万円だった。まあそれはいいけど、当時の2万は大金。お金は貰ったけど、まさかチョイと東京を撮って済むわけないから、取材先をどこにするか考えていたとき、新聞にあった舞鶴の港と崩れそうな桟橋の写真が目に止まった。じゃあ、舞鶴に行こうと。僕の中には東松さんの「占領」や「家」のイメージがあった。1週間くらい旅館に泊まって、写真を撮った。カラスの死骸や、港の風景、自分としては「東松さんをやってしまった」という気持ちで撮った写真を細江さんに見せたら、「僕の写真とそっくりじゃないか」と言われて、あれ? と思いました。僕としては東松さんの写真をフォローしたつもりだったので。でも、今考えると、むしろ細江さんの真似だったんですよね。カメラワークは完全に助手時代に教わった細江さんのものだと思うし。心は東松、技術は細江というところだったのかな。でも細江さんはきっと別の意味で言ったのかも知れませんね。つまり、もっと君らしいものを撮れということだったのでしょう。細江さんのところには丸3年いて、細江さんがヨーロッパに行くのを期に助手を辞め、24歳からフリーになった。

フリー写真家になった瞬間
何もすることがなかった

 フリーになったとき、信じられないくらい、何もすることがなかった。細江さんのところにいた頃、先生のものすごい仕事量を目の当たりにしていたから、僕にも少しは仕事が来るだろうと錯覚してしまった。見事にハズレましたね。僕は面倒くさがりで、あまり営業努力をしないから当然仕事もこない。よく細江さんのところに見えていた『フォトアート』の編集者がちょうど僕と同年代で親しくなって、僕がフリーになったら何か作品を紹介させてくださいということで、最初に載ったカメラ雑誌は『フォトアート』の東京オリンピックのためのスタジアム写真。依頼されたときは、もう張り切って、たった1ページのために20本以上撮ってしまった。そのあと3回くらい写真を載せてくれた。「横須賀」も最初は『フォトアート』に発表したもので、そのあと横須賀を本格的に撮るようになり、それを発表した『カメラ毎日』が写真の作品としては僕のデビュー作になった。
 本格的に写真を撮ろうと思ったのは、やはり『カメラ毎日』の影響が強いですね。篠山紀信や立木義浩や高梨豊、彼らの活躍に触発されましたね。当時あこがれていたのはウィリアム・クラインとその後知ったウィージー。クラインの「ニューヨーク」を初めて目にしたときはものすごい衝撃だった。あと、東松さんの長崎の写真にも。被爆した浦上天主堂の写真には、人の心を動かす得体の知れない力を見たような気がする。簡単にいってしまうと、細江さんを始めとして、僕を写真に引きづり込んだのはその3人の作家ですね。

初個展のために
地図のイメージから遠野へ

 カメラ雑誌での発表はあったのですが、個展は遅かったんです。74年にワークショップ写真学校をやっていたとき、たまたま細江さんに「森山君、まだニコンサロンで展覧会をやっていなかったよね。僕が会期を押さえるから、ぜひやりなさい」と。当時細江さんはニコンサロンの運営委員をされていたんです。しかしまた、なかなかテーマが見つからない。地図をながめながらあれこれ考え、石川啄木や宮沢賢治ファンでもあったので遠野を撮りにゆくことに決めた。今でこそ多少は観光地化してきたけれど、近くに温泉もあるわけではないし、当時は本当に寂しいところだった。地図の中の「遠野」という字面が良い。いい知れぬイメージがたくさんあって。ちょうどその頃、僕自身の気持もちょっと弱っていて、東京を撮るという気分にもなれなくて、心の里帰りをしてみたかった。
 僕は地図を眺めるのが好きで、そこからは風景がありありと見えてくるんです。深夜、自宅の中で拡大率の高い地図を眺めていると、この道はこうだ、遠くには山が見えるぞと、いろいろな想像力がかきたてられる。日常的な方向感覚ダメだけど、知らない町でもだいたい町の作りが分かりますね。僕の体の中には磁石が入っているとでもいうかね。それにカメラを持っていると感覚や正確がスッと変わるんですね。それは東京でもそうだし、旅先でも同じ。自然に磁石が働いて、感覚が冴えてくる。でも、カメラを持っていないと見ているようで何も見えてこないんですよね。写真家は大なり小なりそういう習性があるんじゃないですか。
 60年代に大衆芸能を撮ったのは、寺山修司さんがエッセイの連載の写真を僕に頼んだのがきっかけ。寺山さんに会っていきなり「一緒にドサ回り見に行こう」ということになった。僕はドサ回り体質なんだけど、当時はちょっとカッコつけのところがあって嫌なんだけど、撮りはじめると面白い。最初は依頼の仕事だったけど、寺山さんが忙しくなって途中で連載の仕事をやめてしまった。それでそれまで撮りためた写真を『カメラ毎日』に持っていったら、編集員の山岸章二さんが「これ面白いから、シリーズで撮ろう」ということで、ストリップ劇場や演歌歌手の地方公演を撮ることになり、結果として「にっぽん劇場写真帖」の下地になった。

中平卓馬氏のこと
プロヴォークのこと

 中平卓馬とは2カ月違いの同い年。以前は住まいも逗子という、体質は全く違うのに、いろいろな外的条件が似ているんです。彼は僕にとってなくてはならない存在でしたね。つきあっていた頃は愛憎紙一重だし、唯一のライバルだった。他の誰にもない魅力を持っていた。今考えて、心情的なことを抜きにしても僕の写真に大きな影響を与えたのは中平。彼の言葉の全てに賛同はできないけれどね。たとえば、僕は絵を作るのがうまいから、撮ろうと思えばそんな写真を作り上げることもできるんですよね。でも、それがいいことでないことは自分でも分かっているんだけれど、彼はそれをストレートに指摘する。存在は大きかったと思いますね。写真を彼に教えたのは僕だけどね。「液はバケツで溶いて、温度は指で計る」なんて、めちゃくちゃな教え方だったんですけど。また、すごいインテリでしたね。単なるインテリではなく、鋭い信条と言葉を持っている、魅力的な友人。中平を「コンチクショー」と思い続けていることは、今でも僕のある覚悟にもなっていると思います。僕と彼とは極端に合う部分と、バカにし合う部分があって、たいがいの人は中平のペースに巻き込まれてしまう。でも僕にはそれがなかった。僕の体質がそうさせなかったというか。たとえば笑い話でね。たまたま中平や女の子と一緒に飲みに行くと、別に何の気もない女の子に向かって中平が「泣くなよ」とくり返し話しかけ続ける。すると彼のペースにはまった彼女は本当に泣き出してしまうんですよね。人を完全にスポイルしてしまう危険な男だった。僕は横で「ああ、またやってる」という感じで見ているんですけどね。よく飲み歩きましたね。二人とももともと酒が強い体質でもなく、すぐ酔っぱらってしまうんだけどさ。僕にとっては「プロヴォークは中平と共闘した」という意識が強かった。プロヴォークの終刊には最後まで僕だけ反対した。これからだろ本当は、みんな腰くだけだなと思っていたけれど、それが中平と僕の体質の違いかな。同時に時代の問題でもあった。共同の幻想がなくなった中で、みな収拾をつけて個人に戻っていったんだね。それはプロヴォークだけに限ったことではないのでしょうけれど。

パリのプライベートギャラリーと
ポップアートの影響

 ニューヨークかパリのどちらかに仕事場を持ちたいと考えたとき、いろいろな条件を考えて、パリにアパートを借りることにした。88年から3年間。最初はムフタールという古いアラブ人街。朝夕市がたつ下町の雰囲気があっていいところだったんだけど、プライベート・ギャラリーにするにはスペースが狭かったから、シェルシュミディというボン・マルシェの近くに移った。単純というか無謀というか、当時渋谷宮益坂に「ルーム801」という事務所兼ギャラリーを作った勢いのままに、それをパリに持っていこうと思った。自分のプライベートスペースに自分の写真を飾って、少なくてもいいからパリの人に僕の写真を見てもらいたい。そのつもりでいたけど、そんなアパートに人も来るはずもなく、だんだんショボショボしてきてね。もし本格的にやるなら、いわゆるブティックという商店スペースを借りなくてはいけないけれど、それにはお金と大変な手続きが必要で、外国人ならさらにね。部屋も少ないし。いろんな制約もあって、内装も改装も難しい。言葉の問題もあるし。それでも、行けば何とかなると思っていたんでしょうね。短絡的ですね。
 結局止めたんですが、ニューヨークも考えた理由のひとつには、アンディ・ウォーホルがいた町だから。かつては「クラインのいるニューヨーク」という感じもありましたけど。僕はシルクスクリーンで作品を作ったことがあるけど、それもウォーホルの影響ね。彼の存在を知った時、すでにポップアートの花形だったし、ポップアート自体が当時全盛期だった。映像作家の萩原朔美さんにウォーホルの個展のカタログを見せてもらって、異常なくらいショックを受けた。それはアートの問題としてではなくね。ウォーホルはアートとして表現しているんですが、僕にとってはむしろ写真の問題だと思った。つまり、彼の作風であるコピーしたり同じイメージをいくつも重ねるといった、自分が実際に写したものではなく、他から転写して引用するという行為そのもの。それは、すでに「にっぽん劇場」の中にも影響として表れているわけですね。自分から進んで選んだわけではないのですが、若い頃にデザインの仕事を経験したことが僕の写真の下地を担っている部分があるんでしょうね。だからイメージの並列・羅列が好きだし、奥行きをつけるよりは、むしろ全てを平面に構成する表現に今でもこだわっている。僕は自分の作品がどう引用されたり真似されても文句は言わない。それは僕自身も今までやってきたことだから。人に言わせれば短絡的に聞こえるかも知れないけれど、写真に対しては単純にそう思う。友人からいつだったか「森山さんのとそっくりの写真があったけど、訴えたほうがいい」と言われたけど、むしろ使われたほうが喜ばしいくらいだし、僕は写真に厳密なオリジナリティを求めてはいない。むしろ写真にはそれがないほうが面白いと考えています。
 来年、新宿を600ページの写真集にまとめます。新宿は、撮っていて面白いですよ。ここのところ、何年かまとまったことをしていなくて、少しストレスがたまっていたんだよね。昔の写真を集めて本作っても面白くないし。新宿を撮るのは精神衛生の上でもいいし、肉体的にも。新宿の周辺もあるけど、最終的には歌舞伎町が中心になるかな。


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