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OLA革命-自分度の広げ方 06「岡山県真庭にまつわるエトセトラ」

話は江戸時代初期まで遡り

 江戸時代初期、僕から16代ほど前、甲賀藩(今の滋賀県の一部)の伴登兵(ばんとひょう)が、津山藩(今の岡山県真庭)に登用されて移り住んだと文献で残っているんですよ。
(ちなみに伴太郎左衛門は、近江国甲賀郡(後の伴谷村、現滋賀県甲賀市水口町)の郷士より織田信長に従い天正10年(1582年)本能寺において討死。)そんな関係で、森蘭丸の家族を伴登兵が匿ったことで、その功績として津山藩に所領が与えられたとのことです。

世界恐慌で倒産・夜逃げ

 16代目の僕の父は、それなりに権力の位置にあったことから、地域の養蚕業を任されることになったんです。その頃は羽振りがよかったらしい。
 ところが、1929年(昭和四)10月のニューヨーク株式取引所の株価暴落を契機として発生した世界大恐慌の影響によって、まずアメリカ向け輸出生糸の価格下落による繭価の暴落となって農・山村の養蚕農家を襲いました。いわゆる昭和農業恐慌のはじまりなのですが、ご多分に漏れず、伴一家の会社は倒産し、夜逃げする羽目になったんです。
鹿児島県の志布志市まで逃げて3年、山口県の防府市まで帰ってきたとき、父が当時真庭で会社を営んでいた時期に知り合っていた現在の僕の母と防府市で結婚することになったんです。
僕は4人目の子供でした。その頃はB29での空襲が始まっていて、僕は麦畑で出産する予定だったと母から聞いていますが、たまたま空襲がなくて、座敷で生まれることができました(笑)。防府市の空襲がひどくなってきたので、田舎に疎開するがごとく、再び真庭に帰ってきました。

伴年晶、名前の由来

 僕が生まれた昭和20年6月9日、まだ名前がついていない6月15日に兵役に行っていた僕の叔父さんが軍艦扶桑(ふそう)に乗ったままフィリピン沖で亡くなったことが公報で届いたんです。その叔父さんの生まれ変わりということで、叔父の名前「年晶」をいただくことになりました。真庭で生まれたのではないのですが、純粋の真庭育ちであり、真庭が僕の故郷であり原点にあります。

ゆかりのある岡山での2年連続受賞

 伴家、そして真庭との関わりを話しましたが、そんな岡山との関係から、岡山でコーポラティブハウスを2物件設計させていただきましたが、2009年には中納言コーポラティブ住宅で、2010年には国富2丁目コーポラティブ住宅でそれぞれ岡山市景観まちづくり賞をいただきました。

今回はほとんど脱線状態でしたが、激動の時代を生きてきた私の先祖や父たちの生き様はその後の私の人生に大きな影響を与えているので記録として残しておきたいと考え、お話した次第です。

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