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蝶の羽ばたきで、桜は咲くのか 〜ミュージカル『刀剣乱舞』 陸奥一蓮 の感想と考察(妄想)〜

前回のエントリで陸奥一蓮の歴史描写に関する違和感(東北生まれの民なんだ、許せ……)は吐き出せました。とりあえず。歴史と刀剣男士の物語がパックリ二つに分かれていて、さらには舞台装置にしかなっていない男士もいて作劇のムラを感じてはいるんですけど(伊藤栄之進さんの脚本は群像劇の要素が強かったから余計にそう感じちゃうんだと思います)それでも「刀ミュ本丸の刀剣男士の物語」としてはかなり面白くて、なんなら大興奮だったので、物語の感想と考察に移ろうかなと思います。

今作は、この本丸の過去にぐっとフォーカスしたお話でした。なのでまずはこれまでの作品で描かれた、この本丸の物語を整理したいと思います。

三日月宗近という機能

『阿津賀志山異聞』~『三百年の子守唄』までは、わりと正統派メディアミックスというか、そこまで特殊性がなかったように感じます。このメディミの独自性みたいなものが出てきたのは『つはものどもがゆめのあと』から。
この作品で明らかになったのは、三日月宗近にはどうやら「救える命があるのなら、歴史に影響のない範囲で、可能な限り救う」という想いがあるということ。『阿津賀志山~』では史実通りにするために義経を救うことはできなかったけれども、『つはもの~』では「義経は大陸にわたってチンギス=ハンとなった」という伝説を利用して、義経の命を繋ぎました。さらには、そのルートにたどりつくために何度もループして、歴史の中で哀しい役割を背負う者を「友」と呼び、言葉を交わしてきたこともわかります。

歴史改変はしていないけれども、ガッツリと歴史に介入している三日月の行動を是としない男士ももちろんいて、その一振りが明石国行。『葵咲本紀』では「全部救えないなら、誰も救ってないと同じ」と篭手切に半ば八つ当たりのように言い放ち、その場にいない三日月に怒りにも似た感情をぶつけていました。鶴さんはこのとき明石に牽制してたから、きっと明石の動きにも気づいていたんだろうな……。そして、なんで明石なんだろね? 蛍丸の本体が行方不明のままだからなのか、それとも……?

そしてこの作品ではさらに「この本丸には三日月宗近という機能がある」ということが明かされます。『三百年~』で死んだはずだった徳川信康を救い、彼らのような人たちに“物部”という名を与えていました。『幕末天狼傳2020』では、結末こそ変わらないけれども、少しだけ沖田くんの心を軽くするようなこともしていて。

とはいえ、三日月が救えるのは、結局のところ歴史に名を残している人だけなんですよね。これに関して詳しい理由は描かれていませんが、結局、史実として残っているということは、逆にいうと“そうじゃないルート”の選択がしやすいのかなーなんて思っています。名もなき人を生かしてしまったら、むしろどんなバタフライエフェクトが起きるのか予想がつかない。『静かの海のパライソ』では、そんな多くの“救えない命”が描かれ、『江水散花雪』では救ってしまったが故に、“放棄された世界”となってしまう様子が描かれました。

この本丸には、“三日月宗近という機能”があるものの、そもそもなんで三日月がそんな動きをしているのかは明かされず、なおかつ万能ではないということも現段階ではわかっています。『東京心覚』ではそんな三日月対して、水心子が真っ直ぐな疑問を抱き、ぶつかろうとしました。

この本丸の“始まりの一振り”と“折れた刀”の謎

さて、9年にわたって描かれてきた刀ミュ本丸の物語ですが、明言されていないことがあるんですよね。それは、この本丸の“始まりの一振り”が誰なのかということ。初めは「阿津賀志山~」に出陣した清光かと思ってたんですけど(あ、これはアタシの単なる思い込みね)、『江水散花雪』で、どうやら別の刀だということが分かりました。そして、過去の出陣で任務に失敗し、誰かが折れたようだということも初めて明かされます。また、『江水~』では、山姥切国広(以降、便宜上山姥切と表記します)が、その出来事に対して責任を感じている様子も描かれました。さらには、『伊達双騎』こと『鶴丸国永 大倶利伽羅 双騎出陣』で、鶴丸国永もまた大きな傷を負っていることが分かって……。ただ、この時点では、折れた刀(暫定)と始まりの一振りが同じなのかどうかまでは、分からない状態だったんですよね。

そんな中で公開されたのが、刀ミュのファンサイトの音声コンテンツ『本丸花暦』。水心子が本丸の“花当番”となり、季節の花を通じて本丸の日常が描かれていくのですが……この本丸にはいないのに、その存在感だけがどんどん色濃くなっていく男士がいたんです。考察で何度も名前が上がってきた“あの刀”が、やっぱりこの本丸の“始まりの一振り”なんじゃないの? だとしたらなんでいないの? やっぱり……
ってな感じで、『江水~』以降、丁寧に丁寧にゆっくりと首を絞められてきました。


“折れた刀”の答え合わせ

いや~前置きが長かった。さて、ようやく、ようやく陸奥一蓮のお話です。

本丸の時間軸としては、まさに“今”。三日月はいまだに“機能”として動いており、本丸にはずっと戻っていない様子。そんな中、この本丸に新たな任務が課せられました。出陣先は平安時代初期の東北で、蝦夷征伐に関するなんらかの歴史改変がなされようとしているとのこと。今回は、阿津賀志山で三日月の気配を感じた鶴丸が羽根を通じてメッセージを送り、それを受け取った三日月が遡行経路を開いたと言っていましたが……経路が開かれないと行けないような場所ってあるんですね? いつもの出陣とは少し毛色が異なるため、鶴丸を隊長に、清光、蜂須賀、山姥切、水心子、大包平といった経験値高めの男士が出陣します。

この物語、時間軸は“今”なはずなのに、心がずーっと過去にしかないんですよね。特に三日月と鶴丸。そして、折れた(暫定)刀がだれなのか、正解は言わないけれども、答え合わせをしてくれと言わんばかりの描写が続く続く……

まずは本丸にある桜。刀剣男士が顕現するごとに、桜が一本植えられていたというが、桜の方が一本多いという。つまり、折れていると思われる本丸の男士が一振りいないということになる。(三日月さんもいないけど、みんな存在は知っているのでノーカンです。いうまでもないけどね)

そして本丸の奥にあるいちばん古い桜は、清光曰く“人見知り”っぽい。人見知りといえば、ゲームの回想『九曜と竹雀のえにし』で「ああは言っても人見知りなのに」って言われている男士がいましたね……。

坂上田村麻呂が「計算ごとは苦手」「さっさと首を差し出せ」って、まるで誰かさんのような口癖を言う。(ちなみにこれ、なんでなんだろね? ただの匂わせにしてはちょっと露骨すぎるんだけど、この世界線に思念かなんか残ってるとか、そういうやつです? わからーん!)

その他、この本丸でいちばん先に覚えさせられたのが「歌」だったり、鶴丸と審神者との思い出話に出てくる一人称が「僕」だったりなんだったりで、もう言わなくてもわかるよな!?!?!?!?って感じで、答えを言わない答え合わせをしてきました。

そう、明言こそ避けたものの、この本丸の“始まりの一振り”は歌仙兼定でほぼ確定だと思います。そして、折れてしまった(暫定)出陣先が平安末期の“北”で、その時の隊長が山姥切。部隊には三日月と鶴丸がいたことも分かりました。

本丸が抱えている“痛み”の物語

この本丸の古参にとって、そのときの出陣と一振りの喪失はいまだ癒えていない大きな“痛み”であり、本作ではひたすらにその“痛み”だけを描いていたように思えます。

特に、三日月と鶴丸はまだ痛みの真っ只中でした。多分この二振りは、ミュージカルパートの歌詞にもあったように「守り抜く」っていう約束をしたんだろうなって想像しています。これ、セリフではなく歌詞ってこともあって“何を”守り抜く約束だったのかはわからないんだけど、二振りともその約束に縛られてしまっているからこそ、鶴丸は“呪い”だと感じてしまったのかな、と。

あの本丸全ての刀剣男士を守るために一振りだって諦めきれない三日月と、本丸に残された刀剣男士たちを守り抜くために奔走する鶴丸。「守り抜く約束」のために、何をしたらいいのか、三日月も鶴丸も、いまだに足掻いてもがいている。さらには、彼らの痛みをうっすら察しているからこそ、深く追求できない清光と、多分同じように何かを察しつつも、踏み込めない蜂須賀もいて。

ただ、その一方で、山姥切りだけはそこから一歩先に進み出せていた様に見えました。これはやっぱり『江水~』の時に、大包平をはじめとした仲間たちに助けられたことが大きいんだろうね。当事者ではありながらも、三日月と鶴丸の二振りのことは俯瞰している。だからこそ再出陣で隊長に立候補できたんだろうし。

てな感じで、とにかくこの本丸が置かれている現状をひたすらに見せてきた物語でした。進展はほぼゼロ。歴史はかろうじて守られたんですが、その場をどうにか切り抜けた、ホントにただそれだけ。真剣必殺までして検非違使と死闘を繰り広げたにも関わらず、勝利のカタルシスみたいなのもなかった。

ただ、向き合う準備はできた、とも歌っていたから、ようやくここから始まるのだろうなという予感だけはありました。それにはやっぱり、新しい世代の存在も大きいんだろうなって思います。「人の身になり口を得たなら、なぜ思っていることを口にしないのか」とういうど正論パンチをかましてくれる大包平。三日月が抱えている想いは何なのかを知ろうとし、その想いに寄り添おうとする水心子。そういえば『東京心覚』では「水清ければ 月宿る かもしれないね」って歌われてたね。

三日月の探しているもの

さて、これらを踏まえて(なっが!)ようやく考察というか妄想というかに入ります。

三日月は鶴丸から「まだ探しているのか」と問われていました。話の流れ的に“折れた刀絡み”だとは思うんですけど、これ、折れた刀そのものじゃない気がするんですよね。歴史を守りながらも歴史にちょっとずつ介入していることからもわかるように、歴史を大きく変えることなく、求める答え=歌仙が折れない可能性の糸口を探しているんじゃないかなって思っています。だから何度も何度も廻るし、ちょっとずつちょっとずっつ試している。どこに何のきっかけがあるかわからないから。そう、これさっき出した言葉と一緒な気がするんですよね。

それは「バタフライエフェクト」

三日月さん、もしかしたら些細な出来事がきっかけで好転するんじゃないかと思って、救える可能性に手を伸ばしながら試しているのかな、と。もちろん、人間たちに対する慈愛の心もあるから純粋に“救いたい”っていう想いもあるんだろうけれども。阿弖流為に「もう何度目だ?」と言われて「数えるのはやめた」って言っているくらいだから、気が遠くなるくらい巡って、巡って可能性を探っているのかもしれない。

じゃあなんで三日月にはそんなことができて、鶴丸はできないの? っていう話にもなるのですが、これは“できない”というか、“やる”っていう選択肢が鶴丸にはそもそもないんだと思っています。勝手な行動をとる三日月に苛立ちながらも、鶴丸も「もしかしたら」の可能性を捨てきれないんんじゃないかなって。そして、さらにはそんな希望を少しでも抱いてしまっている自分自身にすら苛立っている。いっそ諦められたらいいのにね。諦めきれないよね。

『本丸花暦』という物語を丁寧に紡いできて、そして本丸の桜の話になっている。桜をまるで折れた刀の写しのように愛で、審神者や鶴丸たちは話しかけている。おそらく、この桜にはそれらの想いや言葉が宿っているんだろうね。刀剣男士が、さまざまな想いから励起されて顕現した存在ならば、この桜に宿った想いと共鳴する可能性があるかもしれない。桜の木が一時的な依代になっていたならば、記憶は、想いは途切れていないのでは……? なんていう都合のいい妄想をしています。アタシもあの本丸の歌仙兼定を諦めきれてないからね。

何も解決しない物語だった。だからこそ、まだ希望だってある。抱えている痛みを共有できたなら、そこから先に「みんなで」進めるでしょ。次作が発表され、スピンオフだってことがわかったので、本公演の続きはまだまだ先になりますが、次の物語でちゃんと解決してくれたらいいななんて思っています。某所で耳にした、前脚本家が描こうとしていたストーリーからはだいぶ変わってしまっているからこそ、その後に紡がれた物語にしか描けない、すてきな結末を待っています。蝶の羽ばたきで、いつかその桜が咲いたらいいなと願いながら。

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