ミッドナイトスワンはLGBT映画か?

昨日、草彅剛主演「ミッドナイトスワン」を観に行きました。

この「ミッドナイトスワン」を巡って、現在なされているこの映画においてのトランスジェンダーの描き方や表現、ストーリーについての議論を観て、私なりに考えたことをまとめてみたいと思います。

(以下激しくネタバレしています)







結論から言えば私はこの映画は「LGBTへの理解を促す映画」ではない、と考える。

また主人公凪沙をトランスジェンダーとしてしか観なかった場合、この映画は批判の的になっても仕方がない映画だ、とも思う。


本作は凪沙の母性や、トランスジェンダーとしての人生の辛さを主軸にしてはいないのではないか。

確かに凪沙(や瑞貴)はややテンプレート気味なマイノリティとしての悲劇の坂を転がり落ちていく。

また一果にバレエを続けさせるため、多くを犠牲にするが、本当の母親にもなれない。


こうやって見ていくと、凪沙はあまりにもステレオタイプな「幸せになれないマイノリティ」なのである。

特に後半にかけては、本当にショッキングで『現実離れ』したシーンが続き、最終的には死が訪れる。


しかしこれを「幸せになれないマイノリティ」を装置としたマジョリティの為の映画と言い切るのは、私はそれはそれで違うのではないかと思う。

これはトランスジェンダーを語りたい物語ではない。

「ミッドナイトスワン」は凪沙という一人の『人間』を描いた、金と血と涙の物語なのである。新宿を舞台にした、愚かで愛おしい人間の物語なのだ。


私はこの物語を『現実離れ』という言葉で形容した。

実際私はトランスジェンダーではないので、あれらが本当に起きることなのか、それがよくあることなのか、それは分からない。

でも考えてみてもあれは現実的にはかなりレアケースのように感じる。


また、就職面接を受ける時も、風俗初勤務の時も凪沙は異常に緊張し、怯えている。

これももっと強かに、あんなに(前時代的なジェンダー観で言えば)女性性を強調しなくてもいいだろうとも思った。


もっと言えば、広島の実家に一果を連れに帰ったシーンで乳房が見えてしまうのも、「あれ?なんでブラ付けてないの?」と考えてしまった。


このように多方面から見てこの映画の展開は『現実離れ』しているのかもしれない。

しかし私は此処こそが「ミッドナイトスワン」を名作たらしめる大きな一因だと思う。


もしかすれば、目に見えない『女性らしさ』を追い求める時代が終わったように、凪沙もまた『現実のトランスジェンダー(マイノリティ)らしさ』がないのかもしれない。

それゆえ、この映画を観て「あ〜トランスジェンダーの人ってみんなこうなんだ!」と思う観客が出てしまうことを危惧される。

宣伝もそのようなマイノリティ役!というのを強調しているだろうし、日本はまだまだ遅れている面もあり、当事者や問題意識のある人々からすればその点は観後感の悪い作品なのかもしれない。


しかしこれらのストーリー展開は「凪沙」にとっては必要だった。

繊細で、脆くて、一果を愛し、そして亡くなった凪沙。

この映画をトランスジェンダー映画と片付けてはいけない。

白鳥に生まれられなかったあひるの子と、あひるに育てられてしまった白鳥の子。

二人の家族の話だ。

強く、そう思う。






ここから少し考察。


白鳥の湖において、オデットは悲劇の中死んでしまう。

実際にステージで白鳥を踊るのは一果だが、凪沙もまた白鳥であるために、オデットをなぞったように水辺で死んでいく。

この意味では一果より凪沙の方が白鳥(オデット)なのかもしれないが、凪沙が幼少期から追い求めたのは「海」であって「湖」ではない。

海では白鳥は生きられない。



そしてこの海のシーンで凪沙は水着の少女の幻を見る。

その後ろ姿は、一果が憧れたレオタードのバレエダンサーによく似ている。

一果という白鳥を生かすために、名前の通り一つの果実を実らせるように、凪沙は水を与えた。

凪沙にとって一果は娘であり、同時に自分自身でもあったのかもしれない。



また、本作において強い存在感を放つりんは、アレルキナーダを踊りながら屋上から飛び降りてしまう。

ヒロイン・コロンビーヌと愛し合うアルルカン。しかしコロンビーヌの父は彼女をお金持ちと結婚させたがっており、アルルカンは落下死させられてしまう。しかしアルルカンは女神によって生き返り、彼はお金持ちになりコロンビーヌと結婚できました、というのがアレルキナーダのあらすじだ。

富を求める父親とバレエを愛する母親の前で、結婚パーティの最中に飛び降りるというのは、りんの最後の抵抗だったのだろう。


物語において対となる一果とりん。

二人とも種類の違う虐待を受けている中、二人の損得勘定のない関係性は美しい。

またりんを撮影会事件の後もしっかり描いたことが、私的にはすごく良かった。

平凡にりんを描くなら嫉妬によって一果の足を引っ張った(友達→いじめっ子)という構図で書けば良い。


それでも二人は寄り添い続ける。

「りん、もう来ないんですか」という台詞からも、「前よりも喋るようになった」はずの一果とりんの間に殆ど会話がなかったのではないかと推察できる。私はその会話の少なさこそ、この二人の深い関係性をよく表していると思う。

だからこそ、二人は時を同じくしてアレルキナーダを踊り、一果はりんの死を確信して涙を流すのだろう。客席にはりんが居る。母親がやってきた時には、我々観客はステージに駆け上がるまで母親の姿を確認できない。それでもりんはあのアレルキナーダのバリエーションの中、客席に現れる。

それは一果にとってのりんの特別性を示しているのかもしれない。





このように、この映画は血と金の物語でありながら同時に素晴らしいバレエ映画と言える。

私はバレエ知識が少ないので、この程度しか考察できなかったが、実際厳しいレッスンや大会の舞台に立つダンサーたちや、バレエを愛好する観客たちが見ればまた違った視点で楽しめるのであろう。



最後にまとめ。

私はこの映画をLGBT理解のための映画ではなく、ただ一人の凪沙と一果という家族を描いた物語だと理解している。

細部までこだわられた、非常に美しく残酷な映画だった。









おまけ。

鑑賞中も泣いていたんですが、エンドロールで色々自分の中で整理できて更に涙が止まらなくなるという経験は初めてでした。

外に出た途端にもっと泣いてしまった…。

瑞貴に関しては、勿論脚本もあるけれど役者さんの力も大きいなと。本当に瑞貴がよかった。声といい、眼といい、瑞貴として生きていた。

あと凪沙の母親の感情の表し方とか…。

ちょいちょい出てくる警察官も上手かった。

あまり邦画を観ないので不勉強だったのですが、こんなに素晴らしい俳優さんがまだまだこんなにいらっしゃるんだという気持ち。

あとヅカヲタとしてはまとぶん綺麗だった…。あの目カッて開く感じ好き…。

多分先生が割とこの作品の良心なんだろうな。大トメだしね。

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