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私が私を喜ばしてこなかった

ここで書いたことを反芻していて、
この繰り返し↴に何が隠されているんだろう?

今日、その事を考えていて気づいたのは、
私は「外を喜ばすことが、私を喜ばすこと」だと勘違いして、
外にエネルギーを垂れ流ししすぎるせいか、
エネルギーバンパイアみたいな愛情クレクレ人間を呼んで、
会話のキャッチボールにならない相手の壁打ちの壁になって、
エネルギーが枯渇しきって、
もう無理だ!!って感じて人間関係を終わりにすることを繰り返してたみたいだ。

「外を喜ばさないと愛されない」
「外の期待に応えないと愛されない」
これを強力に握ってたなぁ。
これが真実って思い込んでた。

我慢して抑圧して、
私の話を聞いてくれなかったり、
私の話を中断させて、友人や父の話を我慢して聞き続けたり、
外からの頼みに対して、できないことを我慢して言いなりになったり、
父や家族のことをやっぱり好きだったのかもなんて嘘を言おうとしたり、
「ごめんなさい、私が間違ってました、
あなた(父、家族、友人)が正しいです」と言って、
納得できないことを飲み込んで、
外に嫌われたくないために、
自分を曲げてきた。

「私」よりも「外」のほうが価値があるって思い込んでた。
私が私に嘘をつき続けてた。
だから私は私を好きになれなかったんだ。
これっぽっちも私のことを大事なんて思っていないから。
だから私は私のことが大嫌い。
でももう、私は、私に嘘なんかつきたくない。
「外」に嫌われたっていい。
こんなのもうたくさんだ。

私は私を喜ばしたい。
私が私と分断し続けていたから。
わたしの声を、わたしの話を、聞かないで、
外ばかり喜ばすことを選んできたから。
でも、私の喜びって一体なんだろう?
私はどんなことに「嬉しい」って感じる?
「外」から開放された私の真の喜びって何?
私はそれがわからなくなってしまった。
この世界のすべてのツールを使って、
私の本当の喜びは何か教えてほしい。
具体的に。
明確に。
そして私にとってわかりやすく。


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